東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 国木~千坊山~竹尾奥方面ウォーキングのための調査(2/3)

2013年08月10日 | 歴史探訪他ウォーキング

 カップルの邪魔をしないように、コバルト台地を早々に退散しました。次に、コバルト台地のすぐ下にあるつばきの里に行きました。展望台に行きましたが、木々が邪魔をして展望がなかったため尾根道に戻りました。しばらくして、竹尾方面に下る十字路に着きました。

    木々が邪魔をして展望なし             尾根道から牛島や祝島を望んで
 

 十字路はお地蔵様があるのですぐ分かります。南西に下ると岩屋,まっすぐ行くと五軒屋,北東に下ると竹尾奥,そして戻るとコバルト台地や大峰峠です。今回は竹尾方面に下りました。下ってすぐ、昔田んぼではなかったかと思われる場所の横を通りました。昭和49年頃の航空写真を見ると、この付近は狭いながらも田んぼでした。

        峠を北東に竹尾方面に下る              昔は田んぼだった荒地
 

 私が高校生だった40位年前の写真を見ると、まだまだ竹尾奥のそのまた奥の田畑は健在でした。しかし、日本の高度成長の時代にすっかり山間地域が変わってしまいました。40年前の写真と今の写真を比べるだけで、その違いがはっきり分かります。特に、田んぼや畑の後退がはっきりと分かります。

             40年位前(昭和49年)の航空写真、山奥の田畑は健在


                  最近の航空写真、田んぼや畑は荒地に


 しばらく暗い山道を竹尾奥に向かって下りました。この山道は、今でもかろうじて人が通っているようで、所々道沿いの草を刈った跡がありました。歩いた場合、峠から40分位で竹尾に着くのではないかと思います。着いた場所には立派なお地蔵様がありました。ここは、西田布施方面や麻里府方面から普賢さまのお参りに来る方々の合流地点ではなかったかと思われます。

  立派なお地蔵様がある竹尾奥の三字路      廃道となっていた竹尾奥北西部の道
    左へは西田布施、右へは麻里府          草に覆われ途中で道が消える
 

 次に竹尾奥の北西部を探索してみました。この道を進むと光福寺に着くはずなのですが、道が雑草で覆われて進めませんでした。実質廃道になっていました。昭和50年頃まではこの付近は立派な田んぼが広がっていたのですが残念です。田んぼを耕す世代が引退後、それを引き継ぐ世代が農業をしなくなった結果だと思います。仕方のないことではありますがさぴしいことです。

           全体的に、田んぼや畑が廃れた竹尾奥の北西地区


 いったん竹尾奥に戻ってひたすら出発地点の元国木小学校に向かいました。途中、喫茶のもで休憩しました。元国木小学校に到着後、距離計を測ると13.0kmまでした。私であれば平気で歩くことができる距離ですが、子供や高齢の方のことを考えるとウォーキングとしては適していません。
 そこで、新たにウォーキングルートを考えるため、気を取り直して国木方面を詳細に調査しました。お菓子の竹下のある古い道を通ったり、農業用道路を調査しました。

   古道脇の「お菓子の竹下」の工場      行き止まりの田んぼ道、猪避けらしい
 

 国木からは古道(昔は普賢さまに行く参道の一つではないか)を通って、大峰峠手前の田んぼに道に入ろうとしました。ところが、どこもゲートがあって入れません。近くの道を歩く古老にお話しを聞くと、猪避けのゲートとのことでした。この付近の田んぼは農業団体がお米を作っているとのことでした。あちこちにゲートがあるため、いったん国木に戻って田んぼ道に入って調査しました。しかし、どこに行ってもゲートがあるためウォーキングルートとしては適しません。ゲートは手で開けることができますが、誤解を生まないためにもウォーキングしない方が無難なようです。

             いったん、国木に戻ってゲートが無い田んぼ道を調査


 国木や竹尾方面は放棄された田畑があり、かつ通れなくなった道がたくさんありました。このため、この方面をウォーキングするには、事前に道をナタなどで切り開いておくか又は通ることができる道だけを歩くほかなさそうです。この周辺は廃道や道にゲートがあるなど、ウォーキングルートを決めることが難しい地域です。

    ×印は、廃道になって通れないか、猪避けのゲートが道をふさいでいる場所

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする