錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~スポーツ青年で洋画ファン(その5)

2012-10-24 19:16:19 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 錦之助は好きな女優にスーザン・ヘイワードを挙げているが、どんな映画を見てそう言ったのか、分からない。昭和三十一年九月号の「平凡スタア・グラフ 中村錦之助集」での発言であるが、ヴィヴィアン・リーでもイングリッド・バーグマンでもなく、なぜそれほど大スターでもないスーザン・ヘイワードなのか。錦之助は天邪鬼なところもあるから、有名な女優は避け、美人だが演技派のヘイワードを挙げて、洋画通ぶったのかもしれない。あるいは、「平凡スタア・グラフ」でのインタビューなので、若いミーハーの錦ちゃんファンを煙に巻くつもりもあったのだろう。(どこかで、錦之助がオードリー・ヘップバーンの名前を漏らしているのを読んだことがあるが、その後は女性ファンを意識して、好きな女優を言わなくなった。)

 
スーザン・ヘイワード

 スーザン・ヘイワードと言えば、『キリマンジェロの雪』(昭和二十八年一月日本公開)でグレゴリー・ぺックの相手役をやって、それが大変良かった。が、彼女の戦後の代表作は、『愚かなり我が心』(昭和二十八年一月)、『我が心に歌えば』(同年七月)、『明日泣く』(昭和三十一年五月)で、『明日泣く』ではカンヌ映画祭で女優賞を取っている。錦之助はこのどれかを見て、あるいは全部見ているのかもしれないが、感激したのだろう。スーザン・ヘイワードはこれらの作品でアカデミー賞にノミネートされたが、主演女優賞を取るのは四十歳を過ぎてからだった。一九五八年(昭和三十三年)、ロバート・ワイズ監督の『私は死にたくない』(昭和三十四年三月)である。実在の女性死刑囚の手記をもとに作った映画で、前科のある女性が殺人事件に巻き込まれ、冤罪で死刑を宣告されるという社会派ドラマだそうだ。

 錦之助は映画俳優になってからも、暇があれば洋画を見ていた。なかでもヒッチコックの映画は見逃さなかったようで、『ダイヤルMを廻せ』(昭和二十九年十月公開)は京都で見ている。また、『裏窓』(昭和三十年一月)を絶賛している。本当は、グレイス・ケリーが好きだったのかもしれない。
 『ダイヤルMを廻せ』は、錦之助が休日に、京都へやって来て久しぶりに会った親友の樋口譲を誘って一緒に見たのだが、これは前に引用した「平凡スタア・グラフ」の樋口の文章の続きに書いてあることで、「君と映画は絶対に行かない」と言った昔のことを錦ちゃんはすっかり忘れているらしかったと樋口は付け加えている。

 樋口譲は、慶應大学を出て、まだ設立間もない日本テレビに入社しプロデューサーになった人だが、自分で書いたドラマの脚本を映画界入りしたばかりの錦之助に見せたことがあった。「ある少年の死」というタイトルで、アメリカの小説家メルビルの短篇からヒントを得て書いたものだったが、これを読んだ錦之助はいたく感動し、いつか必ず実現しようと二人で固い約束を交わした。そして、その六年後の昭和三十五年八月、明治座での父時蔵の一周忌追善興行で、この「ある少年の死」を映画ではなく舞台で実現し、錦之助が主役の少年を演じたのであった。

 樋口譲は、慶大在学中の昭和二十六年から二十七年の一年間アメリカに留学している。渡米前の半年間は錦之助の三河台の家に居候し、兄弟同然に暮らしていたそうだが、樋口が渡米した後、錦之助は大変淋しがり、彼と文通を続けた。
 その時錦之助が送った手紙の一つが、「平凡スタア・グラフ」に紹介されている。昭和二十七年五月七日付で、まるでラヴレーターのようである。

 譲、その後お変りありませんか。
 先月は歌舞伎座で「西郷と豚姫」に舞妓で出ていたが、とてもキレイだったよ、少しはずかしかったけど。今月はどうもつまらないので映画などを見て気を晴らしている。アメリカでは今どんな映画やっている?
 譲はアボット、コステロに逢ったそうだが、本当かい? その時の話が早く聞きてえなあ。君のこと面白い人ですねって云わなかった? 云われたら、世界一の喜劇役者になれるよ。少し喜劇を勉強したらどう。
 今の日本はパチンコばやりでどこもかしこもパチンコだらけ。僕は好きじゃないが、Sさんはプロだよ。タバコ二十個も取ってくるんだ。
 早く帰って来て下さい。譲に話したいことが沢山あるんだ。でも金貸してくれなんて云わないから安心しろ。しかし本当に勉強して来てね。僕も一生懸命勉強する。
 独立国になったことを互いによろこぼう。グッバイ 錦一


 文中、アボット、コステロのことが出て来る。バッド・アボットとルー・コステロで、一九四〇年代に活躍したアメリカの喜劇役者二人組。ラジオで野球ネタの漫才をやって一躍人気者になり、映画では凸凹シリーズ(二十三本)を連作し、日本でも昭和二十五年前後に彼らの戦前の旧作から新作が次々と公開されヒットした。『凸凹探偵の巻』『凸凹ハレムの巻』『凸凹幽霊屋敷』『凸凹殺人ホテル』『凸凹猛獣狩』などである。馬鹿馬鹿しいドタバタ喜劇であるが、錦之助はこのアメリカ版「弥次喜多もの」を見て抱腹絶倒していたのであろうか。
 とすると、もしかして、後年弟の賀津雄と『殿さま弥次喜多』シリーズ三作を撮るのもこの凸凹コンビがヒントになっていた、と思えなくもない。