では、いったい錦之助はどういう経緯で洋画ファンだったのだろうか。
最初は兄の梅枝や映画好きの先輩の役者に話を聞いて東劇内の映画館や有楽町や日比谷の洋画専門館で見始めたのだろう。カルチャアショックを受けたことも確かだろうが、凝り性で研究心旺盛な錦之助は、感動した映画を役者の目で分析しながら見るようになった。そうでなければ、『駅馬車』を何度も見ることはないだろうし、カットをすべて覚えてしまうこともなかったであろう。
錦之助は日記に、見た映画の監督、出演者を記した上でその感想を詳しく書いている。昭和二十七年の日記の写真が「平凡スタア・グラフ」(昭和二十九年十一月号)に載っているが、日記の表紙には「その日その日」という題名が付いている。錦之助が何歳からこうした日記をつけ始めたのかは分からないが、映画の感想を書き始めたのは、恐らく昭和二十六年の後半からではないかと思われる。それは、錦之助が感動したと言って名前を挙げた映画の七作品のうち四作品が昭和二十六年夏以降に公開されたものだからだ。
錦之助の日記「その日その日」(1952年)
「平凡スタア・グラフ」には昭和二十七年の錦之助の日記から『陽のあたる場所』の映画評が紹介されている。月日は不明だが、『陽のあたる場所』が日本で公開されたのは同年九月十六日なので、それ以降であると言える。監督とキャストを書いた上で、次のような感想を書いている。
――最近のアメリカ映画の中で一番すぐれていると思う。いや僕はこんなスバラシイ映画ははじめてといっても云い過ぎではないことに自信がある。ジョージ・スティヴンスの演出は、どこにもすきがなく、どこのシーンもみな綺麗である。アップもとても綺麗だった。僕の一番気に入ったところは、クリフトとウィンタースが暗いところで二人で踊る、窓からは夜の静かな外が見える、ラジオが小さく鳴る――。このシーンはロマンティックでいても、非常にいや味がなく、おそらくこれはジョージ監督の趣味のものであろう。俳優は、クリフト、エリザベス、ウィンタースの順に現れてくるが、それぞれファースト・インプレッションで、各自のシチュエーションというものを強くにおわせる。
とくにウィンタースはファースト・シーンで、女工の感じをうまく出していた。
クリフトとエリザベスのラヴシーンでは、遠くから「モナリザ」を聞かすが、「モナリザ」の音楽がこんなに綺麗に聞けたのははじめてだ。僕は、「モナリザ」をいっぺんに好きになった。
この映画についてタイム誌の批評などによると「ジョージ・スティヴンスが製作監督した故、シオドア・ドライザー原作『アメリカの悲劇』の現代版は、第一に原作に忠実な映画化であり、第二に映画製作における芸術性を発揮した傑作であり、第三には大衆娯楽としても非常に見ごたえのある作品となっている。」
右のような映画を作る人は少なかろう。監督の偉大さをつくづく感じさせられた。
「陽のあたる場所」
この文章を読むと、錦之助が映画の細かいところにも注意を払って見ていることが分かる。私は『陽のあたる場所』を三、四度は見ていると思うが、モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーのラヴ・シーンのバックに「モナリザ」が流れていたという記憶はない。「モナリザ」はナット・キング・コールの大ヒット曲で甘美なバラードだが、この映画を見て錦之助が「モナリザ」を好きになったというのが面白い。錦之助は音楽ではジャズが好きで、特にムードのある曲が好みだったようだ。
また、俳優の登場の仕方とその雰囲気をよく観察しているところなど、いかにも役者の目で映画を見ているといった感じだ。監督の演出法にも注目し、タイムズ誌の批評を引用して、原作に忠実で芸術性と大衆娯楽性を兼ね備えた見ごたえのある作品を作ったジョージ・スティーヴンス監督の偉大さに感心しているが、これなど後年、錦之助が目指した映画とまさに一致しているではないか。
錦之助は映画雑誌もいろいろ買っていた。「キネマ旬報」「映画評論」「映画の友」「スクリーン」などであろうが、どの雑誌かは分からないが、自分の閲覧用と保存用のため二冊ずつ買っていたという。
錦之助は、当時「映画の友」の編集長だった淀川長治に手紙を書いたこともあった。それも一度だけではなかったらしい。ずっと後になって錦之助と淀川長治が顔を会わせた時、淀川が手紙をもらったことを覚えていて、錦之助は喜ぶやら恐縮するやらで、楽しく語り合ったそうだ。
最初は兄の梅枝や映画好きの先輩の役者に話を聞いて東劇内の映画館や有楽町や日比谷の洋画専門館で見始めたのだろう。カルチャアショックを受けたことも確かだろうが、凝り性で研究心旺盛な錦之助は、感動した映画を役者の目で分析しながら見るようになった。そうでなければ、『駅馬車』を何度も見ることはないだろうし、カットをすべて覚えてしまうこともなかったであろう。
錦之助は日記に、見た映画の監督、出演者を記した上でその感想を詳しく書いている。昭和二十七年の日記の写真が「平凡スタア・グラフ」(昭和二十九年十一月号)に載っているが、日記の表紙には「その日その日」という題名が付いている。錦之助が何歳からこうした日記をつけ始めたのかは分からないが、映画の感想を書き始めたのは、恐らく昭和二十六年の後半からではないかと思われる。それは、錦之助が感動したと言って名前を挙げた映画の七作品のうち四作品が昭和二十六年夏以降に公開されたものだからだ。
錦之助の日記「その日その日」(1952年)
「平凡スタア・グラフ」には昭和二十七年の錦之助の日記から『陽のあたる場所』の映画評が紹介されている。月日は不明だが、『陽のあたる場所』が日本で公開されたのは同年九月十六日なので、それ以降であると言える。監督とキャストを書いた上で、次のような感想を書いている。
――最近のアメリカ映画の中で一番すぐれていると思う。いや僕はこんなスバラシイ映画ははじめてといっても云い過ぎではないことに自信がある。ジョージ・スティヴンスの演出は、どこにもすきがなく、どこのシーンもみな綺麗である。アップもとても綺麗だった。僕の一番気に入ったところは、クリフトとウィンタースが暗いところで二人で踊る、窓からは夜の静かな外が見える、ラジオが小さく鳴る――。このシーンはロマンティックでいても、非常にいや味がなく、おそらくこれはジョージ監督の趣味のものであろう。俳優は、クリフト、エリザベス、ウィンタースの順に現れてくるが、それぞれファースト・インプレッションで、各自のシチュエーションというものを強くにおわせる。
とくにウィンタースはファースト・シーンで、女工の感じをうまく出していた。
クリフトとエリザベスのラヴシーンでは、遠くから「モナリザ」を聞かすが、「モナリザ」の音楽がこんなに綺麗に聞けたのははじめてだ。僕は、「モナリザ」をいっぺんに好きになった。
この映画についてタイム誌の批評などによると「ジョージ・スティヴンスが製作監督した故、シオドア・ドライザー原作『アメリカの悲劇』の現代版は、第一に原作に忠実な映画化であり、第二に映画製作における芸術性を発揮した傑作であり、第三には大衆娯楽としても非常に見ごたえのある作品となっている。」
右のような映画を作る人は少なかろう。監督の偉大さをつくづく感じさせられた。
「陽のあたる場所」
この文章を読むと、錦之助が映画の細かいところにも注意を払って見ていることが分かる。私は『陽のあたる場所』を三、四度は見ていると思うが、モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーのラヴ・シーンのバックに「モナリザ」が流れていたという記憶はない。「モナリザ」はナット・キング・コールの大ヒット曲で甘美なバラードだが、この映画を見て錦之助が「モナリザ」を好きになったというのが面白い。錦之助は音楽ではジャズが好きで、特にムードのある曲が好みだったようだ。
また、俳優の登場の仕方とその雰囲気をよく観察しているところなど、いかにも役者の目で映画を見ているといった感じだ。監督の演出法にも注目し、タイムズ誌の批評を引用して、原作に忠実で芸術性と大衆娯楽性を兼ね備えた見ごたえのある作品を作ったジョージ・スティーヴンス監督の偉大さに感心しているが、これなど後年、錦之助が目指した映画とまさに一致しているではないか。
錦之助は映画雑誌もいろいろ買っていた。「キネマ旬報」「映画評論」「映画の友」「スクリーン」などであろうが、どの雑誌かは分からないが、自分の閲覧用と保存用のため二冊ずつ買っていたという。
錦之助は、当時「映画の友」の編集長だった淀川長治に手紙を書いたこともあった。それも一度だけではなかったらしい。ずっと後になって錦之助と淀川長治が顔を会わせた時、淀川が手紙をもらったことを覚えていて、錦之助は喜ぶやら恐縮するやらで、楽しく語り合ったそうだ。