錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~反逆と挫折(その2)

2012-10-31 13:27:59 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 私の手許に昭和27年11月23日発行の「アサヒ芸能新聞」というタブロイド判の週刊誌のコピーがある。ずっと以前に錦之助ファンからいただいたものだが、錦之助の発言を記録した資料としては昭和26年11月号の「演劇界」のインタビューに次いで古いものである(他にもあるかもしれない)。そこに、「梨苑会をめぐって」という座談会の記事があり、この会の設立主旨、活動内容、そして近々催される共立講堂での発表会のことが語られている。
 出席者はメンバー8人で、中村又五郎中村吉十郎市川九蔵(この三人は吉右衛門劇団の準幹部で指導者格)、市川松蔦岩井半四郎(この二人は猿之助劇団)、坂東慶三梅枝錦之助である。


座談会の出席者 左から又五郎、慶三、松蔦、錦之助

 これによると、発表会は11月28日、29日の二日間で、第一回目である。出し物は、近松門左衛門生誕三百年を記念して、「大名なぐさみ曽我」と「傾城反魂香」の二本立て。
 昭和27年のカレンダーを調べてみると、28日が金曜、29日が土曜である。錦之助は「昼夜二回」と書いているが、この二本の出し物を昼の部と夜の部に分け、二日公演なのでそれぞれを昼夜入れ替えて上演したのかもしれない。たとえば、「大名なぐさみ曽我」は28日の昼の部と29日の夜の部といったように。
 最初に梨宛会の指導者格の又五郎と九蔵の発言があり、会の設立動機や趣旨、これまでの活動や今後の抱負などを語っている。要約しよう。

 関西歌舞伎の若手たちの活動に刺激され、東京の方でもそうした若手の会を結成しようということで梨苑会が出来た。この名称は、昭和初期に勘三郎や幸四郎たち当時の若手が作った研究会の名称と同じで、第二次梨苑会と言うべきもの。まず、歌舞伎の脚本の検討から始め、いずれ試演会を催そうと思っていた。それが今回やっと実現の運びになった。会員はここに集った出席者のほかに、種太郎(病気療養中)、澤村源平(のちの訥升)で、相談役として歌右衛門、勘三郎、幸四郎にも協力してもらっている。今までに近松の「心中万円草」と「心中天網島」を仕上げた。みんなで読み合わせながら解釈の仕方を討論するやり方で、分らない箇所は専門家に教示してもらった。近松の作品から始めたのは、系統的な意味から選んだことで、今後は南北、黙阿弥、また新作も手がけていくつもりだ。試演会はこれを機に年二回くらいはやっていきたい。

 その後、若手たちのいろいろな発言がある。
 半四郎は「最初は一週間に一回くらいでしたが、劇団が同じでないから僕や松蔦君はなかなか出られないので辛いナ」と言っている。猿之助劇団に在籍していた二人は、蚊帳の外に置かれていたところもあったようだ。梨苑会は、吉右衛門劇団が中心で、菊五郎劇団の若手は一人も入っていない。
 関西歌舞伎界の若手と一番交流があったのは、種太郎と錦之助である。この二人が発案者、推進役となって、梅枝や他の若手を巻き込み、又五郎を担ぎ出して梨苑会を作ったことは間違いあるまい。種太郎と錦之助が親しくしていた雷蔵と鶴之助からいろいろな知恵を授かり、彼らの経験も参考にしたのだと思う。
 梅枝は座談会で第一回発表会のPRをして、「両方(『大名なぐさみ曽我』と『傾城反魂香』)とも原作に非常に忠実で、なかなかいいいですよ」と話し、司会から稽古の期間を尋ねられて、「大体半月ですね。でも少ない」と答えている。これは立稽古のことで、本読みはすでに終っていたのかもしれない。


座談会の出席者 左から梅枝、半四郎、吉十郎、九蔵

 なにしろ、元禄期に坂田藤十郎らによって京都で上演された歌舞伎を二百数十年ぶりに復活上演するというのだから大変なことだったにちがいない。近松の原本を省略せず科白も変えずに忠実に演じるというのである。『傾城反魂香』は「吃又(どもまた)」のくだりの後に続く段を上演し、『大名なぐさみ曽我』全段は初演の時以来という上演である。実際演じられた芝居を誰も観たことがなく、伝承された型も存在しないので、新作をやるのと同じように一から創り上げたという。役者の稽古だけでなく、義太夫、衣裳、小道具、舞台セットなどすべてそうである。錦之助は「稽古に入って二日になるけどまだどの程度のものか見当がつかないナ」と言っている。

 錦之助はこの座談会であと二度発言している。
 近松の脚本について、「読んでいて素直に入れるということは、やはり近松という人が人間の気持を真底から正しくつかんでいたのですネ」が一つ。
 もう一つ、司会が今月のように歌舞伎の昼夜十本の出し物の時に一本くらい自分たちの勉強のためにやらせてくれと言えないのかという質問に対し、松蔦が「無理でしょう」と答えた後に、錦之助は文楽に比べ若手が勉強する場を与えてくれない歌舞伎興行に触れ、こう言っている。
 「文楽の太夫さんたちは端場なんか語ったり、掛合いをやったりして勉強ができるけど、僕たちにも端場もののようなものをやらせてほしいナ
 端場(はば)とは人形浄瑠璃では各段の最初の部分で、あまり重要でない場面である。
 
 この座談会が11月のいつ行われたのか分からない。発行は11月23日であるが、座談会は11月の初め頃かもしれない。公演が28日から始まり、稽古が半月、この座談会の時点で稽古二日目ということは、11月10日以前であることは確かだ。
 
 梨苑会公演の「大名なぐさみ曽我」のことを長々と書いたが、これでようやく11月の歌舞伎座公演で、錦之助が一役にしか出演しなかった理由が判明した。この期間、梨苑会公演の稽古に励んでいたのである。梨苑会のほかのメンバーも同じで、やはり11月の歌舞伎座では一役しかやっていない。又五郎、梅枝、種太郎(病気で休演したようだ)、半四郎、松蔦はみな一役である。慶三だけが二役やっているにすぎない。歌舞伎座の本興行を片手間にして、自分たちの公演の準備や稽古を優先したのだ。歌舞伎座の千秋楽は26日。一日置いて、翌日28日から2日間だけの公演であったが、これは既成歌舞伎への挑戦でもあり、若手役者たちの体制内での反逆でもあった。

 錦之助も書いているように、梨苑会公演では、みんなで切符を分担して売りさばいたというし、スポンサーがいたのかどうか分からないが、自主公演同然だった。神田一ツ橋の共立講堂は約2,500人収容、当時はクラシック音楽のコンサートがメインのホールであった。若手歌舞伎で二日とも大入り満員になったというのだから大したものだ。関係者や知り合いだけでは満員にはなるまい。大手の新聞にも報道され、きっと大きな話題を呼んだのだと思う。
 
 一つ、新しい事実が分かった。「配役総覧」で、ついでに「傾城反魂香」の配役を調べてみた。すると、これにも錦之助が出演しているではないか。錦之助本のリストにはこの公演で「大名なぐさみ曽我」だけを記していたし、錦之助も「あげ羽の蝶」の中でこの出し物のことにしか触れいなかった。が、「配役総覧」を見ると、「大名なぐさみ曽我」には錦之助の名前がないのに対し、「傾城反魂香」にはちゃんと出ている。実はこちらの方が良い役だったのだ。以下、配役をあげておく。
 
 お宮=又五郎、元信=梅枝、葛城=錦之助、山三=九蔵、亭主=吉十郎

 これでは何が何だが分からない。そこで、「歌舞伎名作事典」を出して「傾城反魂香」のあらすじを読む。錦之助の演じた葛城という役は島原の傾城(遊女)で女役であった。九蔵扮する名古屋山三と結ばれるようだ。それにしても梅枝が男役の狩野元信をやっているのはどうしたことか。又五郎のお宮は、島原の元傾城で年増女。元信の昔の恋人だった。

 さて、その後の梨苑会の活動についてだが、今のところさっぱり分らない。第二回発表会を催したのか、また錦之助が関わったのは第一回までなのか。それと、松竹演劇部は梨苑会の活動にどういう反応を示したのか。歓迎したとはとても思えないのだ。松竹は武智歌舞伎に対しても報復的な処置を講じたようだし、梨苑会の活動に対しても阻止する方向に動いた可能性が高い。また、座頭である吉右衛門と猿之助、そして梨苑会のメンバー三人の父時蔵は、どう考えていたのであろうか。これも分からない。