錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~反逆と挫折(その1)

2012-10-29 21:43:59 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 昭和二十七年、錦之助は良い役に恵まれなかった。ほとんどが脇の脇といった役だった。出演も一興行に一役ないしは二役で少なかった。
 望んでいた立役はさっぱりで、誰かの家来ばかりだった。歌舞伎座では、一月の「志度寺」(しどじ)で家来、四月の「清正誠忠録」で家臣、十一月の「俊寛」で侍。まあまあ良い役といえば、二月の新橋演舞場で「船弁慶」の駿河次郎、十二月の京都南座で「紅葉狩」の従者左源太くらいである。(「紅葉狩」では山神に代わって初めて左源太をやった)
 あとは女形で、こちらの方がまだしも良い役が多かったが、それでも四番手ないし五番手の役が多く、四月の歌舞伎座、「西郷と豚姫」で舞妓、九月の「菖蒲浴衣」で芸者をやったのが目立ったにすぎない。良い役は、五月の大阪歌舞伎座での「佐々木高綱」の娘薄衣の役くらいであろうか。


「西郷と豚姫」左から源平、梅枝、錦之助

 昭和二十七年後半の錦之助の舞台出演に関しては不明な点が多い。錦之助本の巻末リストを見る、十月と十二月の二ヶ月がブランクである。また、七月の吉右衛門一座の地方巡業も、演目と役名は分かるが、どこへ巡業に行ったのか、また期間はいつなのかも分らない。
 問題は十月のブランク。データベースに錦之助の出演記録はない。が、記念写真集「三世中村時蔵」を見ると、年譜に、時蔵は「十月、四国九州方面へ巡演」と記してある。きっと錦之助は時蔵の巡業に随行したのだと思う。長兄種太郎も一緒だと思う。一方、この期間、吉右衛門一座は名古屋の御園座に出演。データベースによると、「吉右衛門大一座十月興行」とある。吉右衛門は、昼の部で「石切梶原」、夜の部で「籠釣瓶」という当たり役を演じている。吉右衛門を座頭に、幹部の幸四郎、勘三郎、歌右衛門、又五郎、吉之丞、吉十郎、そして若手の慶三、梅枝、訥升など総出演である。つまり、錦之助だけがはずれて、時蔵一座の地方巡業に参加した可能性が高い。さもなければ、東京で居残り組である。

 この年は、錦之助の自伝の中でも思い出に残る役として、雷蔵と同じ舞台に立った役を二つ挙げているだけである。
 それは、三月に大阪歌舞伎座で出演した「三千歳と直侍」での千代春と、八月の明治座で出演した「十六夜清心」(外題は「花街模様薊色縫」)での恋塚求女(もとめ)であった。
 「三千歳と直侍」では、直侍の片岡直次郎を雷蔵の養父の市川寿海が演じ、その恋人の花魁三千歳を錦之助の父時蔵が演じたが、入谷の大口屋寮の場で錦之助と雷蔵が二人揃って若いお女郎さんに扮したのだった。錦之助の千代春に対して、雷蔵の方は千代菊という名である。
 「十六夜清心」も寿海と時蔵の共演で、寿海が寺僧清心、時蔵が遊女十六夜だったが、こちらは錦之助と雷蔵が一日交替で恋塚求女の役を演じた。女ではなく中性的な寺小姓で、清心に金を奪われ、殺されてしまう哀れな役である。つまり、錦之助と雷蔵が舞台で一日おきに殺されていたわけだ。錦之助は、「あげ羽の蝶」の中でこう書いている。

――二人とも寿海さんから教わったのですから、セリフ回しが少し違うぐらいで、大体同じなんですが、舞台にたつとモリモリと競争心がわき、教わったことをやるので精一杯のなかにもお互いにいろいろと工夫しあったものです。


錦之助(千代春)と雷蔵(千代菊)

 錦之助の遊女はあでやかだったと想像するが、雷蔵の女形というのはどうなのだろう。写真を見る限り、特別美しいとも思えないが、修業の必須科目として雷蔵も女形に取り組んだのだろう。雷蔵の舞台出演リストを見ると、ずいぶん女形もやっているが、雷蔵はやはり立役に向いている役者であった。武智歌舞伎で鶴之助、扇雀とともに一躍脚光を浴び、昭和二十六年六月に雷蔵を襲名してからは関西歌舞伎だけでなく、東京にも出向いて有望な若手役者と目されるようになっていたが、莚蔵時代に特に好評を得た役は、武智歌舞伎で演じた「妹背山道行」の烏帽子折の求女(実は藤原淡海)だった。この役はまさに適役だったらしく、関西の劇評家たちだけでなく谷崎潤一郎が賞賛したほどであった。これがきっかけとなり、関西歌舞伎界の重鎮寿海に認められ、寿海に嫡子がいないことから、ちょうど二十歳になる前に彼の養子に入って雷蔵を襲名したのである。
 この時代の錦之助と雷蔵を比べてみると、雷蔵の方が恵まれていたし、役者としての方向もある程度見えていたように思える。寿海が自分の後継者と定め、養子とはいえ一人息子の雷蔵に絶大な期待をかけ、後ろ盾になったことも大きい。役柄は、二枚目の立役、それも「やつし」の境遇にある貴公子か、悲愴感漂う武将など、翳と憂いを帯びた立役を目指していた。
 それに対し錦之助はどうかと言うと、時蔵の実子でも四男であったことがます何よりの弱みであった。また世代的に東京の歌舞伎界では上(先輩)が詰まっていて、錦之助を優先的に押し立てるわけにもいかない。錦之助は三越青年歌舞伎の「鏡山」のお初で好評を得たが、それは一途で可憐な娘役が評価されたのであり、父時蔵が歩んだ女形への道を歌舞伎ファンが期待するものであった。
 九月の歌舞伎座出演で、「菖蒲浴衣」で芸者をやった四人の集合写真が「あげ羽の蝶」に載っている。


「菖蒲浴衣」左より錦之助、又五郎、梅枝、慶三

 錦之助本の巻末リストで九月のところに「菖蒲浴衣」が二行重複して書いてあるのは、最初誤植かと思ったが、実は子供かぶき教室で、同じ「菖蒲浴衣」をやり、錦之助も本興行と同じ芸者の役をやっているのが分かった。これは「歌舞伎座百年史」にちゃんと書いてあることで、「九月十四日 第七回子供かぶき教室 解説=河竹繁俊 『菖蒲浴衣』 芸者=又五郎・慶三・源之助・松蔦・九蔵・雷蔵・梅枝・錦之助・源平」とある。錦之助、雷蔵、梅枝が女形で共演している。
 子供かぶき教室は昭和二十七年二月から始まった催しで、東京都教育委員会協賛。都内の小中学生を招いて、歌舞伎座で日曜の朝に上演。若手歌舞伎俳優の養成にもなった。

 錦之助は女形を嫌い、時蔵の期待にそむいてまで立役を目指したが、はたして立役が向いていたのだろうかという疑問を感じる。無論、歌舞伎役者としての話だが、弁慶や仁木弾正のような豪快な役は無理だろうし、いずれ義経や「忠臣蔵」の判官あるいは勘平といった大役が回ってくるまで、何年か女形を続けるよりほかに仕方がなかったのではあるまいか。が、それも、錦之助のお坊ちゃん育ちの忍耐力のなさ、熱しやすく冷めやすい傾向、負けず嫌い、新しいものへの挑戦欲、一本気といった性格、しかも子役時代の栄光を引きずって、観客からの喝采を浴びる主役に憧れていたとすれば、困難であったにちがいない。現在の自分の状況が八方ふさがりで、歌舞伎界に進むべき道がないのではないかと思い始めたのは当然かもしれない。
 人一倍研究熱心で看板役者の芝居を真剣に見ていた錦之助が急に情熱を失い始めた。稽古にも熱が入らなくなった。錦之助は「あげ羽の蝶」にこう書いている。

――しかし、歌舞伎教室はともかくとしても、本興行ではさっぱり役らしい役はもらえませんでした。そしてふたことめには、関西カブキの若手はしっかりしているのに、東京の若手はだらしがない、という声が劇団の内と外でささやかれていました。関西方の若手では中村扇雀、坂東鶴之助さんが活躍して扇鶴時代とかいわれていたときでした。僕たちにいわせればやらせてもらえないものはだらしがあるもないも、しょせん仕方がないではないかといった気持になってきました。

 昭和二十七年から二十八年にかけて頃であろう。雷蔵も含め関西の若手たちの活躍に対し、ひがみ、あきらめ半分だった錦之助の気持ちがうかがわれる内容である。