錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~スポーツ青年で洋画ファン(その6)

2012-10-25 13:32:16 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 「わが人生 悔いなくおごりなく」の中で、錦之助はこう書いている。

――そのころから私は映画が大好きで、上映されるほとんどすべてと言っていいほど洋画はよく見ていました。どのスターが好きとかいうのではなく、作品が良ければ何でも見ました。

 また、「芸能生活五十年を語る」の中ではこう語っている。

――僕は映画が好きだったですね。本当に好きで好きでたまりませんでしたよ。当時、十八、十九歳ですから当たり前かもしれませんが、歌舞伎界にいてもたいした役はつかいないんです。そこで、僕は何か自分でやってみたいという、とても強い思いを持っていました。門閥も何もない、ただ自分の実力だけで伸びていける映画という世界に魅力も感じていました。まあ、青春の爆発とでもいうものでしょうか。この思いも映画入りの動機だと思いますが、何といっても、ただただ映画が好きだったというのが、本当の映画入りのキッカケでしたね。

 分かることは、18歳から19歳のころに封切られた洋画はほとんど見ていたということである。先に引用した「演劇界」(昭和26年11月号)で、兄の梅枝が、「僕達は二人共、洋画の方が好きなので、日本のはめったに見ません」と言っているが、梅枝も錦之助も日本映画はのめり込むほど面白く感じなかったのだろう。
 錦之助が19歳だった昭和27年は、前に書いたように、歌舞伎の舞台では望むような良い役がほとんど付かず、出番も減って、錦之助が滅入っていた時期である。錦之助が封切られる洋画、特にアメリカ映画を見まくっていたのはこの年だと思う。

 昭和27年(1952年)に日本で公開されヒットしたアメリカ映画を挙げてみよう。
 『リオ・グランテの砦』、『キング・ソロモン』(猛獣ジャングル映画)、『地球最後の日』(SF映画)、『巴里のアメリカ人』、『凱旋門』、『ピノキオ』、『欲望という名の電車』、『二人でお茶を』、『河』、『砂漠の鬼将軍』、『アフリカの女王』、『殺人狂時代』、『風と共に去りぬ』、『陽のあたる場所』、『真昼の決闘』、『誰が為に鐘は鳴る』、『セールスマンの死』、『革命児サパタ』、『花嫁の父』など。
 ディズニーの『ピノキオ』は1940年製作だが日本ではこの年の5月に、チャップリンの『殺人狂時代』は1947年製作、『風と共に去りぬ』は1939年製作だが、2作とも9月に公開された。
 当時のアメリカ映画は、色彩映画も多く、西部劇、冒険映画、ミュージカル、ディズニー動画、文芸映画、海外物、社会派ドラマ、恋愛コメディ、ホームドラマなど、百花繚乱である。
 洋画ではほかに、イギリス映画の『第三の男』(1949年製作)が9月に公開され、ツィター(オーストリアの民俗楽器)の演奏によるテーマ曲とともにヒット。フランス映画では、『天井桟敷の人々』、『巴里の空の下セーヌは流れる』、『輪舞』、『肉体の悪魔』、『愛人ジュリエット』など。ジェラール・フィリップが日本のスクリーンに登場したのは前年公開の『パルムの僧院』であるが、観客に衝撃を与えたのは、何と言っても『肉体の悪魔』(1947年製作)だった。イタリア映画は『ドイツ零年』、『にがい米』、スウェーデン映画の『令嬢ジュリー』、またドイツ映画で戦後初めて公開された『題名のない映画』などである。

 錦之助が親友樋口譲へ送った昭和二十七年五月七日付の手紙の末尾に、「独立国となったことを互いによろこぼう」とあるように、同年四月二十八日にサンフランシスコ講和条約が発効され、日本は独立した。
 進駐軍による占領が終わり、検閲のなくなった日本映画は、チャンバラの全面的解禁、仇討物の時代劇も自由に製作できるようになった。それによって、各映画会社も時代劇映画の復活を目指し、製作に力を注ぎ出す。
 邦画をめったに見ず、洋画漬けになっていた錦之助が、この頃の日本映画界の動向についてどの程度知っていたのかは分からない。錦之助は新聞をよく読んでいて、まずはスポーツ欄、それから演芸欄を熟読していたというが、映画雑誌も買って読んでいたので、実際邦画は見なくとも、その現状についてはかなり知っていたにちがいない。
 時代劇の復活によって映画界からの誘いが歌舞伎役者たちにも向けられてきたこと、それについては錦之助も敏感に察知していたことだろう。
 戦後のそれ以前にも歌舞伎役者たちの時代劇映画出演はあった。菊五郎劇団などは松緑、梅幸をはじめ劇団員がこぞって映画出演したこともある。昭和二十五年六月公開の新東宝作品『群盗南蛮船』(稲垣浩監督)という映画である。昭和二十五年十二月には大谷友右衛門が東宝作品『佐々木小次郎』(村上元三原作、稲垣浩監督)で映画デビューして人気を呼び、翌二十六年には『続佐々木小次郎』、『完結佐々木小次郎・巌流島決闘』を撮って、若手時代劇スターの第一号になっている。(ただし大谷友右衛門は、大正九年生まれでデビュー時三十歳だった。昭和三十年に歌舞伎界に戻り、その後四代目中村雀右衛門を襲名し、女形として活躍。平成二十四年二月、九十一歳で亡くなったことは周知の通りである。)


「二條城の清正」(昭和12年)
錦之助と大谷広太郎(のちの友右衛門)

 菊五郎劇団の面々も、そして大谷友右衛門も、錦之助は同じ舞台に立ったことがある役者たちであり、錦之助が彼らの映画出演に関心を持たずにいたということはあるまい。後年錦之助も語っているように、チャンスがあれば自分も時代劇映画に出演してみたいと思っていたことは確かである。