錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~戦中の一家(その5)

2012-08-31 01:16:02 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 世田谷の家へ移り、錦之助は、暁星国民学校で六年生を終える頃、松沢国民学校へ転校すろ。当時は疎開した生徒が多く、学校には少数の生徒しかいなかったと錦之助は書いている。が、校則の厳しい私立のお坊ちゃん学校の暁星から、東京郊外のハナタレ小僧や悪ガキの多い公立学校へ転校したことは、錦之助にとって面白い体験だったようだ。
 「あげ羽の蝶」によると、松沢国民学校には顔をきかせていた悪童がいて、そいつは俳優の杉狂児の息子(長男の杉義一の弟)で、その子分がこれまた俳優の星ひかるの息子だったそうだ。錦之助は、この二人とよく喧嘩をしたという。この悪童二人を相手に錦之助は一人で立ち向かい、いつも勝っていたと書いているが、本当なのだろうか。
 杉狂児は、ご存知のように後年ベテランになってから錦之助を脇で支えた名喜劇俳優であるが、昭和十年以降、数々の日活多摩川作品で星玲子(マキノ満男と結婚)とコンビを組み一世を風靡した人気スターだった。昭和十八年末から昭和二十年前半は映画界を離れ、杉狂児一座を結成して慰問巡業していた。長男の杉義一は、映画の子役から戦後東横映画(のちの東映東京)の俳優となり、錦之助も『青春航路 海の若人』で共演している。錦之助は名前を挙げていないが、喧嘩相手というのは四男坊の杉幸彦だったと思われる。彼も映画の子役から、戦後は日活の俳優となりテレビでも活躍した人である。映画初主演は日活多摩川作品の『次郎物語』(昭和十六年 島耕二監督)で、主役の次郎(幼年時代)だった。
 悪童たちのいる松沢国民学校に転校した錦之助はどうなったのか。

――向こう気の強い僕は転校したばかりの新入りのくせに、たちまち悪童仲間の親分みたいな格におさまりました。と、僕の貫禄はたいしたもので、だれかがいい争ったり、なぐりあいなどしていようものなら、すぐ別のだれかが僕を、「小川、けんかだぞ、来てくれ、来てくれ」といって、呼びにくる始末でした。

 話を空襲に戻そう。
 一月二十七日に銀座・有楽町を直撃した空襲についてはすでに述べたが、二月以降も空襲は連日のように東京で続いた。
 錦之助は空襲が恐くてたまらず、サイレンが鳴ると、すぐに逃げ支度をしたそうだ。父時蔵はそんな錦之助に、一つの役目を仰せつけた。それは、空襲警報が鳴ったら、必ず祖父母の位牌を持って避難するということだった。時蔵は、子供の錦之助をご先祖様に守らせたかったのだろう。そうした親心を知って知らずか、十二歳の錦之助は防空壕にもぐり、ブルブル震えていた。

 三月一日には空襲によって明治座と浅草国際劇場が焼け落ちる。
 そして、三月十日の零時直後、B29およそ300機が東京の下町に爆撃を開始した。これが歴史に悪名高い米国による東京大空襲である。風の強い日を見計らった計画的なもので、木造家屋が密集する一帯で焼夷弾による火災の延焼を狙ったのだった。空襲は十日の未明まで続き、東京の約三分の一を焼き払った。死者は十万人以上、被災者は百万人以上と見積もられている。長崎での原爆の死者が約七万人、広島での原爆の死者が約十二万人と言われるが(もちろん、被爆者で後に死亡した人を合わせればもっと多い)、この東京大空襲も、戦争とはいえ、罪のない民間人を無差別に殺傷した米国政府による非道行為であった。


東京大空襲後の都心部

 この日の夜の様子を錦之助は、「ただひとすじに」の中でこう書いている。

――東京都の下町一帯を火焔につつんで大空襲が夜の空を真紅の色に染めました。私たちはふるえる足をふみしめて世田谷から夜の更けるのを忘れてじっとみつめておりますと、あの火の海も次には私たちの上にくるかと思うと何を考えるのもいやになるような息苦しさでした。

 新潟県の池の平に疎開していた母ひなは、大空襲のことをラジオで聞くと、すぐに汽車に飛び乗り、何時間もかけて世田谷の家へやって来た。そして、家族の無事を見てほっとし、力が抜けて畳の上にへたり込んでしまった。その日、久しぶりに会った母を囲み、遮蔽幕と暗い電燈の下でささやかな宴を開き、父と兄三人と錦之助は、最後になるやも知れぬ団欒に、努めて明るく振舞ったという。
 東京への空襲は、この後も続き、四月十三日(皇居の一部や明治神宮の本殿・拝殿が焼失)、四月十五日にも、大規模な空襲があった。



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