錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~戦中の一家(その6)

2012-09-02 21:20:47 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 三河台の家が全焼したのは、四月二十五日の夜のことだった。
 翌朝、世田谷の家に電話があり、錦之助は三河台の家が焼けたことを知らされた。早速、父時蔵と兄たちみんなで焼け跡に向かうと、一面焼け野原で、あちこちにはまだ煙がいぶり、焼けただれた黒い塊がころがっていた。足元がすくむ思いだった。三河台の家は跡形もなく焼け落ちていた。父も兄たちも悄然としてただ眺めるだけだった。すると、向こうに母ひなの姿が見えるではないか。家族の安否を確かめに、新潟から駆けつけたのだった。あまりに突然で驚き、みんなで母の方へ駆け寄った。母は涙を浮かべていた。それは悲しみの涙ではなく、家族にまた会えた嬉し涙だった。気丈な母は、「東京中の家が焼けたんだから、うちが焼けても当然よ。かえって心配がなくなっていいじゃない」と言ってみんなを励ました。
 すでに日本は本土決戦体制の準備を進めていたものの、米軍との兵力の差は歴然として、敗色濃厚だった。昭和二十年三月、米軍は硫黄島の戦いを終え、四月には沖縄本島に上陸。ルーズベルトが急逝し、米国大統領はトルーマンに代わったが、日本に無条件降伏を求めるべく、米軍の攻勢は激しさを増した。欧州では四月末にイタリアが降伏し、ムッソリーニは銃殺され、続いてヒトラー自殺。五月には、ドイツの降伏によって欧州戦線は終結した。

 五月二十四日未明から二十六日にかけ、東京上空に490機もB29が出撃し、山の手中心に広範囲の空襲を行った。
 五月二十五日、新橋演舞場、そしてついに歌舞伎座が焼けちる
 この時は、我が家が焼け落ちた時以上に、歌舞伎界の人たちのショックは大きかった。歌舞伎座という歌舞伎の殿堂は、カトリック教徒にとっての大聖堂に等しく、これを焼き払われた時の悲嘆の激しさは、言葉に表せないほどだった。


空襲直後の歌舞伎座

 父時蔵と兄とともに廃墟と化した歌舞伎座を訪れた錦之助は、暗澹たる気持ちの中に激しい怒りさえ覚え、そして、日本の必勝を信じて疑わなかった確信は崩れ去り、敗北感にうちひしがれた。
 時蔵と錦之助たちが世田谷の借家を出て、赤坂氷川町の知人の家へ移ったのは、この頃であった。
 錦之助の自伝は二冊ともこのあたりの記述が曖昧である。昭和二十年三月、世田谷の松沢国民学校で錦之助は六年生を終え、四月から松沢国民学校の初等科から高等科(二年制)へ進んだのか、それともすぐに暁星中学校へ入ったのかが分からない。暁星国民学校は六年で初等科を終えると、その後は暁星中学校(四年ないし五年制)へ編入される。赤坂氷川町に移った時点で、錦之助がまた暁星に復学したとすると、中学一年の一学期の途中からということになろう。その場合は早くて五月初め、遅くとも六月半ばには転校したと思われる。また、松沢国民学校初等科を終えて暁星中学校へ入ったとするならば、しばらくは世田谷から九段下(または飯田橋)まで電車通学していたことになる。京王電車で新宿まで行き、新宿から市電あるいは省線で通っていたのだろうか。
 ところで、赤坂氷川町というのは、当時は東京都赤坂区氷川町(現・港区赤坂六丁目)で、地下鉄赤坂駅(TBSのあるあたり)の南側、三河台(六本木)から溜池に向かって六本木通りを行けば10分ほどのところにある。世田谷の家を出たのは、家主が戻って来たからで、赤坂氷川町の家は時蔵の元内弟子の家で、彼の家族がみな疎開してしまい、がらんとしていたからだという。あまりいい家ではなかったらしい。錦之助は「あげ羽の蝶」でこう書いている。

――ガケの下の、陽当たりの悪い長屋ゼンとした一軒でした。雨がちょっと降っただけで道がぬかり、となり近所も陽気でさわがしい人たちばかりでした。はじめてみる庶民生活といった感じなのですが、僕には心地よく、共感さえおぼえました。

 現在の高級住宅地・赤坂とは雲泥の差であるが、錦之助とっては、向う三軒両隣といった長屋生活は楽しかったようだ。ここでの生活は、戦後になってもしばらく続く。



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