錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~若和田先生(その1)

2012-09-03 18:04:47 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 錦之助が暁星中学校の一年に編入すると、愉快なことがあった。それは若々しくて面白い教師、若和田孝之先生との出会いだった。錦之助がのちに東映に入ってその不思議な再会に驚くと同時に大喜びしたという、その人の名は、東千代之介である。
 東千代之介は、本名を若和田孝之といい、大正十五年(一九二六年)八月十九日、東京市四谷区塩町に長唄の家元六代目杵屋彌三郎の次男として生まれた。四谷第三小学校に入学し、三年の二学期に暁星小学校へ転校し、昭和十四年暁星中学校に進んだ。一年先輩に錦之助の長兄貴智雄(種太郎)、一年後輩に次兄茂雄(梅枝)がいた。中学三年の頃、弓道部で先輩部員の貴智雄と知り合った。その貴智雄が落第し、中学四年で千代之介と同級となった。千代之介は子供の頃から大の歌舞伎ファンで、歌舞伎役者に憧れていたので、二人は親友になる。すると学期末に千代之介が成績不良で落第してしまい、中学四年をもう一年やる羽目になり、そこで今度は錦之助の次兄茂雄と同級になった。まず、錦之助の兄二人とはそういう関係である。

 東千代之介については、「東千代之介 東映チャンバラ黄金時代」(一九九八年発行 ワイズ出版)にある千代之介自身が書いた「『雪之丞変化』でデビューするまでの私」が貴重な資料として大いに参考になる。この本は千代之介の写真も満載で、千代ちゃんファンにはたまらない一冊である。千代之介が亡くなる二年半ほど前に出版され、あいにく遺作となってしまったという曰く付きの本でもある。


東千代之介(昭和19年)

 さて、昭和十九年四月、千代之介はどうにか最終学年の中学五年に進級する。(千代之介は間違えて昭和十八年と書いているが、昭和十九年が正しい。)が、もうこの頃は戦争もたけなわで、授業どころではない。毎日、学徒勤労奉仕に駆り出された。千代之介が勤めさせられたのは、品川の鮫洲にある防毒マスクの工場だった。千代之介は軍国少年(当時は青年)であったが、この勤労奉仕が嫌で、怠けがちになり、暁星中学校で軍事教練担当の或る教官に相談した。馬場中尉という人だったそうだ。すると、じゃあ教官でもやってみるかという話になり、六月頃、母校の体育科補助教官に採用される。こうして十八歳の千代之介、いや、若和田孝之先生が暁星中学校に誕生したのである。
 前掲書から千代之介自身の文章を引用してみよう。

――補助教官の仕事は、低学年には軍歌演習、高学年には武装して軍事教練を行うことだ。校庭をぐるぐる廻って、「轟沈」「若鷲の歌」など好きな軍歌を声高らかに唄っていたあの頃が、ほほえましく、なつかしい。
 この新教官は張切りすぎて時折大失敗をやらかして恥をかいた。重い背嚢に三八式歩兵銃という完全軍装で駆け足行進をしたときのことだ。普段教官や助手は演習の場合、軽装しているものだが、僕は生徒と同じ装備に機関銃を担いで出かけた。生徒への励ましもあるが、多分に教官としての面子もあった。さて出発、先頭を走る私が「ワッショイ」と言うと、あとに続く生徒たちが「ワッショイ」と唱和する。「ワッショイ」「ワッショイ」と、まことに威勢よく九段から日比谷、半蔵門、そして警視庁前まで来たときには、さすがに元気な私も、顎を出してノビてしまった。先頭で「ワッショイ」と掛け声を掛ける方は初めからお終いまで休む暇なく叫び続けなければならない。生徒の方は大勢だから休めるが、こちらは休めない。とうとう息切れして頭がクラクラでへばり込んでしまった。

 若和田先生は、生徒と年齢も近く、また真面目で愛すべき人柄だったので、すぐに生徒の間で人気が出た。みんな、明るく元気な若和田先生を慕い、先生に付いていった。授業は軍歌の演習や隊列を組んでの行進だけではなかった。若和田先生が校舎の屋上に登り、手旗信号をやってみせたり、ある時などグライダーを借りてきて生徒と実戦さながらの飛行機ごっこなどもしたようだ。
 校庭で青空教室もやった。その時はなんと、若和田先生が市川右太衛門の旗本退屈男の真似をして、講釈師まがいにストーリーを話して聞かせたという。
 若和田先生は徴兵検査で甲種合格になっていた。いずれ学徒出陣で兵隊にとられることが分かっていたので、自分が主役となって自宅に生徒たちを招き、壮行会の練習までしたそうだ。教練の教官をしているという役得を生かし、配給の食糧を大目にもらって、みんなに振舞った。手に入れた酒は自分が飲むだけでなく生徒たちにも試しに飲ませてやったというから、豪気な先生ではないか。

 昭和二十年、錦之助は世田谷の松沢国民学校から、また暁星に戻った。半年振りでガキ大将の錦ちゃんが帰って来たことを、東京に残って心細い思いをしていた友達は喜んで迎えたにちがいない。
 そして、教練の最初の授業。評判の若和田先生が颯爽として現れる。
「なんだ錦坊じゃないか!」
「あっ、先輩!」
 若和田孝之は、小川貴智雄と茂雄の弟である錦之助のことを知っていた。また錦之助も、兄貴たちの級友で歌舞伎好きな若和田先輩のことを知っていた。
 東千代之介と中村錦之助、『笛吹童子』で萩丸と菊丸の兄弟を演じ、揃って一躍東映の人気スターとなり、以後数々の映画で共演をしてファンを沸かせたこの二人の最初の出会いは、こうして始まった。
 錦之助は当時の千代之介の思い出について、「ただひとすじに」の中でこう書いている。
 
――私は、学校のころ、錦坊錦坊と可愛がられたもので、その頃の私は大変腕白だったので、千代之介さんの大切に秘蔵していた日本刀をこっそり持ち出して、庭の木をバサリバサリと叩き斬ってしまったことがあります。あの時は千代之介さんもただあきれて、別に怒りもせず、私もやってしまってからやりすぎたかとちょっと悪い気がした程度でしたが、全く今考えると、腕白だったその頃が一層懐かしくよみがえって来ます。

 これについては、千代之介もコメントしている。生徒を集めての壮行会の予行演習の時だったとのことで、「この中には錦ちゃんも入っており、一杯機嫌で、伝家の宝刀を持ち出し庭の木を斬ったりしていた」と。
 この壮行会の予行演習には、錦之助の長兄貴智雄もいつも参加したという。千代之介はこう書いている。

――壮行会で一番お世話になったのは、錦ちゃんのお兄さんの歌昇さんである。この良き先輩はその頃、鵠沼の六代目尾上菊五郎の家に住んでいたが、壮行会の報を聞く度に入手困難な鮮魚などを持って遠路はるばる出席して下さった。

 文中、千代之介は歌昇さんと書いているが、貴智雄のことで、当時の芸名は種太郎である。彼は六代目菊五郎に心酔し、昭和二十年のこの時期に(四月から終戦までの頃)、六代目の疎開先の家に住み込んでいた。時蔵と錦之助たちが赤坂氷川町の知人の家に移った時、家が狭かったので、彼だけ六代目の家に移ったのかもしれない。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿