錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~播磨屋の家系(その2)

2012-08-19 19:12:37 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 萬屋吉右衛門というのは、芝居茶屋の屋号が萬屋で、その主人が代々、吉右衛門を名乗っていた。萬屋が江戸時代のいつ頃創業したのかは不明だが、ずっと市村座専用の芝居茶屋だった。市村座は天保13年(1842年)に日本橋葺屋町から猿若町に移転して来たが、葺屋町時代から萬屋はあって、市村座とともに移転して来たことは確かである。そして、時蔵の義父になる萬屋吉右衛門の祖父、すなわち先々代の萬屋吉右衛門は、実は人形浄瑠璃作者の松貫四(まつかんし)(?~1798年)だったということだ。これは劇評家の伊原青々園が『声曲類纂』という書物から発見して、雑誌「太棹」に「江戸作者の親玉」という一文を書いて発表したことだった。松貫四は、江戸時代の明和から天明にかけて、当時盛んだった江戸人形糸あやつり芝居の台本を数多く書いた。「伽羅先代萩」や「神霊矢口渡」も貫四の作である。松貫四という名は筆名で、苗字の松は、近松の松だけを取ったものだった。もちろん、この人の本業は芝居茶屋萬屋の主人なのだが、芝居好きが高じて、人形浄瑠璃の作者に転じて名を成したというのだから面白い。この松貫四こと葺屋町の芝居茶屋主人萬屋吉右衛門の孫が、次々代の萬屋吉右衛門で、この人の娘が時蔵の嫁になるおかめだったいうわけだ。
 今の吉右衛門は松貫四の筆名で歌舞伎の台本も書いているが、先祖を意識してこの名を使っていることは明らかである。
 戻って、時蔵が明治3年東京に出て来て、その後四、五年猿若町の市村座などに出演していた頃、芝居小屋萬屋は市村座の近くにあって繁盛していた。
 時蔵の嫁になったおかめの父が何代目の萬屋吉右衛門であるかは分からないが、姓は「小川」であった。この小川という姓もいつから使い始めたのか分からない。おそらく、明治5年(1872年)平民苗字許可令が発布された後、適当に付けたのだろう。初代時蔵の姓は「波野」で、これは時蔵の実父の家が「丹波屋」で、母の実家が「平野屋」だったので、真ん中の一字をそれぞれ取って、「波野」としたそうで、本当は「はの」と読むべきなのだが、「なみの」で通ってしまった、と初代吉右衛門は自伝書の中で書いている。明治維新後、一般庶民が自分に付けて役所に届け出た苗字というのは、そうした付け方だったようだ。
 中村錦之助の本名小川錦一の「小川」姓は、父の三代目時蔵が萬屋吉右衛門の戸籍上の養子になったからで、三代目時蔵は小川姓を名乗ったわけだ。兄の初代吉右衛門は、父の姓を継いで「波野」、弟の十七代目勘三郎も「波野」姓である。また、初代吉右衛門が芸名を萬屋吉右衛門から取ったことは言うまでもない。錦之助が後年、萬屋を再興したいという亡父の希望をかなえ、屋号を播磨屋から萬屋に変え、萬屋錦之介と改名したのも、こうした経緯があったからである。
 もう一つ、初代時蔵は、俳名を獅童といい、号(画家や書家の雅号)を梅枝と言ったそうで、どちらも舞台で使う芸名ではなかったことを付け加えておきたい。(ただし、梅枝という号は明治元年頃、芸名として使ったこともあったようだが、米吉から時蔵を襲名する繫ぎのほんの一時期、半年かそこらだったようである。)昔の有名人は、俳句や絵もたいしてやらないのに、俳名や雅号を付けていた見栄っ張りが多かったようだ。獅童という名は、三代目時蔵の俳名とばかり思っていたが、初代時蔵の俳名で、これは「吉右衛門自傳」に書いてあることだから間違いないだろう。その獅童という名を三代目時蔵の三男・三喜雄が芸名として初舞台を踏んで役者となり、その後廃業してからずっと使っていなかったその名を息子に譲って、今の中村獅童があるわけである。

 時蔵とおかめの夫婦は、ぜえろく役者に江戸っ子娘という組み合わせだった。時蔵は浪花育ちの派手好みで見栄っ張り、おかめは小さな頃から芸事を仕込まれた芝居通の小町娘。おかめは九代目團十郎のファンで、江戸前の気風の良さを好み、なかなか気の強い女だったようだ。大阪からの流れ者の時蔵は、裕福な萬屋に婿養子に入ったような形だったのではなかろうか。萬屋には跡取り息子がなかったので、明治7年結婚後、二人は子作りに励んだが、なかなか出来なかった。
 そこで、越前屋という同業の芝居茶屋の男子を養子にもらった。幼名・徳松、長男である。彼が種太郎となり、初代中村歌昇となり、ずっと後年の明治41年4月、時蔵が三代目歌六を継いだ時に、二代目時蔵を襲名するのだ。が、翌年に親に先立って死去。33歳の若さだった。したがって、彼が二代目時蔵を名乗っていたのは、一年余りの短期間だった。初代中村歌昇(1876~1909)については、今のところその程度しか分らない。

 明治17年3月、市村座で時蔵は九代目團十郎、五代目菊五郎と共演。この時、九代目は時蔵が久々に市村座に帰って来たことを歓迎し、口上まで述べてくれたそうだ。これには、時蔵も大喜びしたという。が、一ヶ月の興行が終ると、一座を退き、地方巡業に出る。
 明治17年、結婚8年後にして女子が生まれ、お世(よう)と名づけた。
 明治18年帰京し、中嶋座(日本橋蠣殻町にあった)に出演。座付きになり、明治20年暮れ中嶋座が焼失するまで3年近くここに出演した。その後はいろいろな芝居小屋を転々とする。
 明治19年(1886年)3月、待望の男子(実子)が生まれる。次男辰次郎で、のちの吉右衛門である。
 明治23年、大阪に帰る。大阪の角の芝居などに出演。
 明治28年(1895年)6月、三男米吉郎が生まれる。のちの三代目時蔵(錦之助の父)である。この時、一家は大阪の難波に住んでいた。
 明治29年11月、東京に帰る。これが三度目の上京で、以後東京内で何度か引っ越すものの、東京に落ち着く。初代吉右衛門の話では、父時蔵は、引っ越し魔で、何度小学校を転校したか分からないほどだったという。



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