錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~戦中の一家(その2)

2012-08-29 06:51:06 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 すでに米英主導の国際社会から孤立していた日本は、自らアジア諸国の盟主を目指し、いわゆる大東亜共栄圏の確立に向けて積極的に動き出す。
 昭和十五年は、東京で夏季オリンピックと日本万国博覧会を開催することが正式に決定していたのだが、日支事変の長期化と参加国の減少で政府が開催を取りやめたという経緯がある。が、その準備は前もって進められいて、例えば、六月、隅田川に勝鬨橋が開通するが、これも月島を会場の予定にしていた万国博のためだった。勝鬨橋は当時東洋一を誇る可動式の架け橋で、一日に五回開閉し、これは戦後も続いた。ご存知のように勝鬨橋は、歌舞伎座から晴海通りを少し行ったところにあり、小学二年生の錦之助もきっと東京のこの新名所を見に行って喝采したのではなかろうか。
 七月、近衛文麿内閣(第二次)は、大東亜の新秩序と国防国家をスローガンに掲げる。
 八月には東京中の食堂・料理屋で米食が禁止され、国民精神総動員本部が「ぜいたくは敵だ!」の立看板千五百枚を東京市内に設置。
 九月、日本軍は仏領インドシナ北部への進駐を始め、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶ。こうした日本の動きに米国の反発は強まり、十一月、米国大統領三選を果したルーズベルトは、反日姿勢を強めていく。
 十月末には東京のダンスホールが閉鎖。東京の庶民にとって、明るい話題といえば勝鬨橋くらいなもので、生活全体が暗く、戦時体制へ向け一層厳しさだけが増していく。議会政治は終わりを告げ、各政党が解散して、十月には大政翼賛会が発足し、続いて十一月に日本産業報国会が出来て、労資の組織が大同団結。国民生活では隣組制度が始まり、戦時における住民の動員、物資の供出、統制品の配給、のちには空襲時の防空活動を行うようになる。男子が国民服を着用し始めたのもこの年の終わりから。
 ところで紀元二千六百年の式典は二月十一日の紀元節にも全国の神社で催されたが、十一月十日に宮城前広場ほか各地で盛大に挙行された。歌舞伎座でも紀元二千六百年奉祝興行が打たれる。「盛綱陣屋」で羽左衛門の佐々木盛綱の一子小三郎を錦之助が演じるのはこの時である。
 十二月には、同じく歌舞伎座で菊五郎一座の興行があったが、当初予定していた出し物の「六歌仙容彩」が頽廃的であるとの理由で警視庁から上演禁止を命じられ、「京鹿子娘道成寺」に差し替えられる。「道成寺」は六代目菊五郎の十八番で、錦之助は所化(小坊主のこと)の役で出演した。「歌舞伎座百年史」を見ると、「道成寺」には同じ所化の役で、市川男女丸(のちの大川橋蔵)も出演している。六代目の後ろか脇で、八歳の錦之助と十一歳の橋蔵が可愛らしい小坊主姿で踊っていたのだろう。
 この頃から、歌舞伎界でも中堅以下の役者や裏方たちが続々と兵隊に取られ始め、また物資の不足で衣裳や小道具にも支障をきたし、歌舞伎もやりにくくなっていった。庶民も伝統的な歌舞伎をゆったり鑑賞するどころではなくなって、客の入りも減り、歌舞伎界も沈滞ムードが漂い出す。

 昭和十六年正月、ニュース映画の上映が各映画館で義務づけられ、国民の関心は戦時の世界情勢と日本の動向へと高まっていく。日本軍は中国と仏印への進攻を同時に進め、五月末には中国の拠点重慶への空襲を再開、七月末には南部仏印への進駐も開始する。米国は、日本との交渉を中止し、対日制裁に踏み切る。在米日本資産の凍結、日本への石油の輸出禁止である。
 この年の東京の最大の話題といえば、二月十一日の紀元節に、李香蘭(山口淑子)が日劇の舞台に出演したことであろう。開始前五千人ものファンが集り、有楽町の日劇の周囲を七周り半取り巻き、切符発売と同時に殺到したため、警官隊や消防車まで出動して大騒動となる。結局公演は中止。これが有名な「日劇七周り半事件」である。
 四月に国民学校令が施行され、尋常小学校(六年制)と高等小学校(二年制)が国民学校に変わり、義務教育の年数が八年になる。錦之助は、暁星国民学校初等科三年生になった。
 また同じ四月から、米の配給制が始まる。大人は、一日二合三勺(三三〇グラム)の割り当てだったという。三度の食事にご飯を食べる日本人なら、一日三合(多い人は五合以上)は食べるであろうから、これでは腹八分といったところか。子供一人の配給量は分からないが、錦之助を含め育ち盛りの子供を九人も抱えた時蔵一家の食事はどんなものだったのだろうか。

 十月、日米交渉に失敗した近衛内閣は総辞職し、東條英機内閣が成立。十一月末の「ハル・ノート」を米国の日本に対する最後通牒とみなし、十二月八日、ついに日本は米英に宣戦布告、マレー半島上陸および真珠湾攻撃を開始し、大東亜戦争へ突入した。

 日本軍の作戦が功を奏したのは半年だけで、東南アジア全域を制圧したのも束の間、昭和十七六月、ミッドウェー海戦で大敗して以降は、米国の攻勢に日本軍はなすすべなく、各地で撤退、玉砕を続けていく。
 昭和十八年、四月に山本五十六が戦死、七月、米国機B-25が日本本土へ空襲を始める。十二月、学徒出陣第一陣。
 昭和十九年、七月サイパン島で日本軍が全滅。東条内閣総辞職、小磯内閣成立。八月グアムで日本軍全滅。十一月、東京に最初の空襲。



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