錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~戦中の一家(その3)

2012-08-29 10:24:16 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 錦之助は、昭和十七年、翌十八年と歌舞伎座を中心に、夏休み以外、ほぼ毎日のように子役を勤めていた。「盛綱陣屋」では重要な子役・小四郎を演じ始め、名子役の評価を得ていた。歌舞伎座での「実録先代萩」で千代松を演じ、観劇した東條首相に頭を撫でられたのは昭和十八年九月である。十月に羽左衛門の「盛綱陣屋」で再び錦之助が小四郎を演じ、弟の賀津雄が小三郎をやった時が、錦之助の子役時代の幕引きになった。
 「芸能生活四十周年記念版 萬屋錦之介」(昭和五十三年十月発行 勁文社)の巻末にある舞台出演リストによると、昭和十八年十一月と十二月の歌舞伎座で錦之助は「喜撰」の所化喜観坊の役をやったとあるが、これは大して重要な役ではない。「歌舞伎座百年史 資料篇」を見ると、重要な役名には子役でも名前が載っているが、所化の役の子役では市川たか志と中村福助(七代目)の名前しかなく、錦之助の名はない。
「喜撰」は、「六歌仙容彩」の内で六歌仙の一人喜撰法師が登場する場面だけを抜き出したもので、喜撰法師が坊主や小坊主を従え祇園の茶屋の前に現れて、「チョボクレ」という浮かれた拍子の歌に合わせてコミカルに踊るといった短い舞踊劇である。喜撰法師は六代目菊五郎、小野小町こと祇園の茶汲み女お梶は菊之助(のちの七代目梅幸)、所化)の役には、高助(五代目助高屋高助)、栄三郎(八代目尾上栄三郎)、田之助、染五郎(のちの八代目幸四郎)、海老蔵(のちの十一代目團十郎)の名がある。

 昭和十九年二月、決戦非常措置によって、待合、カフェー、遊郭、劇場などの休業が通達され、こうして、二月末までで歌舞伎座はじめ各劇場が閉鎖されことになった。その後、有識者からの反対もあって、四月には東京では新橋演舞場と明治座で歌舞伎を上演することが認可されるが、歌舞伎役者の多くは移動劇団を編成して各地を慰問して回ることになる。吉右衛門劇団が吉右衛門を座長として結成されたのは昭和十八年一月であるが、その主なメンバーは、時蔵(専務幹事)、九蔵(八代目團蔵)、團之助、もしほ(十七代目勘三郎)、芝翫(六代目歌右衛門)、染五郎(八代目幸四郎)、又五郎、吉之丞であった。
 吉右衛門劇団は、昭和十九年四月から八月まで各地を慰問巡演する。時蔵も一緒に回っているが、錦之助を連れて行ったという記録はない。子役は随行しなかったのだろう。

 昭和十九年八月、学童疎開が始まる。暁星国民学校も、縁故疎開(親戚や知人を頼っての疎開)できない生徒達を、軽井沢や箱根、山梨に別けて集団疎開を始めた。
 子供九人の大家族であった時蔵一家もいよいよ二手に別れる日がやって来た。錦之助が暁星国民学校五年生、十一歳の時である。錦之助の自伝にはそれがいつ頃だったのか書いていないが、おそらく夏の終わりか秋の初めだったと思われる。母ひなが姉二人と妹二人、そして弟の賀津雄を連れて、新潟県の池の平へ疎開することになったのだ。
 最初、錦之助も疎開組に回されるはずだったが、錦之助自身の強い希望で、父時蔵と兄三人が留まる三河台の家に残ることになった。錦之助は自伝「ただひとすじに」の中でこう書いている。

――母は勿論、錦一がまだ子供であるとの理由で反対、父もまた、私が小さいので足手まといになることを恐れ、母と共に疎開することが安全と反対しました。しかし私もこの時は懸命に両親の反対に抵抗しました。そして漸く東京に残ることを許されました。



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