錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~名子役の頃(その1)

2012-08-23 08:17:14 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 錦之助は四歳で初舞台を踏み、十一歳までずっと子役を続けた。戦後になって十三歳からまた子役で出演するが、声変わりもあり年齢的に中途半端な時期で、端役が多かった。
 錦之助が演じた子役で重要な役は、「極附幡随長兵衛」の長松、「清正誠忠録」の秀頼、「寺子屋」の小太郎、「盛綱陣屋」の小三郎小四郎である。
 そして、錦之助は、伯父の吉右衛門と父の時蔵の間に入って子役を演じることが多かった。これは、錦之助が吉右衛門一座に加わっていたためで、時蔵もこの一座の副座頭だったからだ。主役の吉右衛門が得意の出し物で、かつ子役が重要な演目に錦之助は出演したわけである。
 たとえば、「極附幡随長兵衛」(通称「湯殿の長兵衛」)では、もちろん長兵衛は吉右衛門、女房のお時は時蔵、息子の長松が錦之助という配役である。
 侠客幡随長兵衛が、日頃から犬猿の仲である旗本水野十郎左衛門の屋敷へ、罠と知りつつ単身乗り込むが、湯殿で浴衣一枚になったところを惨殺されるというストーリー。長松が出るのは第二幕、家を出る父長兵衛に別れを告げる場面である。


錦之助の長松

 錦之助は、この長松を、五歳、七歳、九歳の時にやっている。昭和十三年六月の大阪歌舞伎座、昭和十四年十二月の浅草国際劇場、昭和十七年五月の歌舞伎座と同年六月の京都南座である。
 錦之助は、よほどこの役の印象が強かったようで、伯父吉右衛門について語る時には、必ずその時の思い出話をしている。自伝「あげ羽の蝶」にはこう書いている。

――吉右衛門伯父さんの長兵衛が、いよいよ水野十郎左衛門の屋敷に命を張って出かける時、「すがるわが子を……」という義太夫にのって、「お父ちゃん、早く帰っておくれよ」と、僕の長松がすがりつくのですが、どうしたことか、ここのところになると、いつもさびしくなって本当に泣けてきてしようがないのです。幕になると「錦坊が泣いてらあー」とからかわれるのがいやさに、大急ぎで涙をふきながら楽屋へ飛んでいったものです。今にして思えば、子供の僕に何となく親子別離の悲しい気持をわかさせたのも、ひっきょうは故吉右衛門伯父さんの〝巧さ〟だったんでしょう。

 しかし、そのあと、錦之助は楽屋へ帰ってカツラを脱ぎ捨てると、着替えもせずに、すぐさま舞台裏へ回り、三幕目の「湯殿殺しの場」を見に行った。初日から千秋楽まで連日、わくわくしながら見ていたという。湯殿での長兵衛と水野十郎左衛門との立回りが見たかったからだ。昭和十七年五月の歌舞伎座では水野十郎左衛門は六代目菊五郎だった。

 錦之助は、そのおよそ五十年後、歌舞伎座公演でこの「極附幡随長兵衛」を取り上げ、吉右衛門の名演を偲んで、自ら長兵衛を演じている。平成六年六月、次兄・四代目時蔵追善興行だった。その時、長松役は四代目時蔵の孫(現・時蔵の長男)の義晴が勤めた。四代目梅枝を名乗っての初舞台であった。

清正誠忠録」のことは前にも触れたが、吉右衛門(初代)の加藤清正、時蔵(三代目)の淀君、錦之助は豊臣秀頼である。この秀頼役は、錦之助が、四歳、八歳、十歳の頃にやっている。昭和十一年三月の神戸松竹劇場、昭和十六年年六月の東京劇場(東劇)、昭和十八年四月の歌舞伎座での吉右衛門一座の公演においてである。歌舞伎座での公演では、叔父の二代目もしお(先代勘三郎)が吉右衛門一座に加わり、助演している。もしおは一時東宝劇団に移籍し、松竹専属の兄の吉右衛門、時蔵と別行動を取っていたが、松竹に復帰した。播磨屋三兄弟が揃い、そこに十歳の錦之助が、ご幼少だが一番偉い主君豊臣秀頼を演じた。
 後年、錦之助は美空ひばりの助演をして、映画『千姫と秀頼』(昭和三十七年 マキノ雅弘監督)、また舞台「春秋千姫絵巻」(昭和六十一年)で秀頼を演じるが、すでに四歳の頃から幼少の秀頼をやっていたのである。
「清正誠忠録」は、通称「毒饅頭の清正」という。三世河竹新七作の時代物で六幕。加藤清正の毒饅頭の俗説を脚色したものである。初演時(一八七五年)は、江戸歌舞伎風に近江源氏の世界とし、加藤清正は佐藤正清、淀君は宇治の方だったそうだが、九代目團十郎が再演した時、名題を「清正誠忠録」と改め、活歴物(活きた歴史を再現したリアリズム狂言)に変え、登場人物も実名にしたという。清正が家康から毒を盛った饅頭を食べさせられながらも生き延び、秀吉の子で豊臣家を継いだ幼い秀頼を守護するというストーリーである。
 吉右衛門は、九代目團十郎の型を継ぎ、この演目を若い頃から何度も上演していた。吉右衛門は、清正役者と言われるほど、加藤清正を当たり役とし、ほかにも何種もの「清正物」を手がけている。


「清正誠忠録」吉右衛門(清正)と錦之助(秀頼)

 播磨屋のお家芸に「秀山十種」というのがあり、吉右衛門自身が自選したという演目であるとのことだが、謙虚にも六種だけ挙げてやめてしまったらしいが、そのうち四種は「清正物」である。「二條城の清正」「蔚山城(うるさんじょう)の清正」「肥後の清正」、それと「清正誠忠録」で、あとの二種は「弥作の鎌腹」と「松浦の太鼓」になっている。「清正物」としてはほかに「地震加藤」と「毒酒の清正」(原題「八陣守護城」)がある。ちなみに「秀山」というのは、吉右衛門の俳名で、この数年、二代目吉右衛門が座頭となって毎年「秀山祭」を催しているので、ご存知の方も多いだろう。

芸能生活五十年を語る」(平成元年四月発行 光芸)という非売品の記念本の中で、錦之助(当時は萬屋錦之介)は、子役では「幡随院長兵衛」を一番よく覚えていると言い、「清正誠忠録」の秀頼については、「秀頼の僕がだっこされてね、清正のひげをいじるんですよ。『ひっぱっちゃいかん、芝居なんだから』と言われてね」と語っている。
 清正の付け髭を錦之助が本当に引っ張って吉右衛門が慌てている様子が目に浮ぶ。
 錦之助が子役として出演した吉右衛門の清正物は、ほかに、「二條城の清正」、「蔚山城の清正」、そして「毒酒の清正」(原題「八陣守護城」)である。役名は、順に、常陸介頼宣、清正の子息、近習。
 「二條城の清正」は、昭和十二年十月歌舞伎座で、「蔚山城の清正」は、同年十二月の明治座での上演だった。錦之助が五歳になる前後である。「毒酒の清正」は昭和十三年十一月の歌舞伎座の上演なので、六歳になる直前である。いずれも、当時吉右衛門一座の若女形であった六代目中村福助(昭和十六年に六代目芝翫、昭和二十六年六代目歌右衛門を襲名)が助演している。



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