錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~小学校時代~(その2)

2012-08-21 23:40:47 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 錦之助の小学生時代のエピソードを紹介しよう。「平凡スタアグラフ 中村錦之助集」(昭和31年9月号)からの引用である。
 まずは、前にも登場した婆やの金沢さよの発言。

――小さい時はとても背が小さく、学校でも前の方から数えた方が早いほどでした。肩の骨が出ているので、この骨どうしてくれるんだといっていました。皆から小さい小さいといわれると、とても気にして自分でも役者をやめて三味線か踊りで身をたてようと思ったこともあったようです。

 小学生時代、錦之助はよく喧嘩をしていた。

――小学校の三年生の時には、お弁当箱をペコンとへこませて帰ってきましたので、これどうしたのと聞きましたら、「落として踏んだんだよ」というのです。おかしいと思っていたら、友人と喧嘩をして弁当箱でたたいたということがわかりました。

 同じ「平凡スタアグラフ」に、暁星小・中学校時代の同級生四人の座談会が載っている。「ザックバラン学生時代」というタイトル。錦之助はやんちゃで負けん気が強かったという点で四人の意見は一致している。(四人のうちの一人に能楽師の観世静夫がいる。)


高尾山の遠足 後列中央が錦之助
(この中の二人が座談会に出席している)

「何しろ威勢のいい男だったよ、小学校の頃から」
「チビだったね、真ん中より小さかった」
「喧嘩しても強くはないんだが、うまかった」
「自分というものの使い方がうまかった」
「あの頃から演技がうまかったんだな」
「はたで見ていて、彼を応援したくなるんだから不思議だよ」


 錦之助は、喧嘩をする時、自分のことでするのではなく、友達のために、喧嘩を買って出たのだという。子供の頃から、親分肌があったようだ。

 よく錦之助の喧嘩の介添い人をやらされたという同級生の発言。

「彼のなぐられっぷりも見事だったよ。放課後何時に小川と誰かが喧嘩をするという前触れがあったんだ。ぼくも小川の応援で行ったんだが、何と始めたと思ったら、たった一発で彼が負けさ。それっきり何も手向かわない。地駄ばたしないんだな」
「とてもさっぱりしているんだよ。だから彼と喧嘩すると大抵あとは仲良くなる」


 錦之助が負けず嫌いだったことを伝えるエピソードにはこんな発言が。

「ドッジボールの組対抗があったとき、C組が負けて優勝旗がもらえなくて、彼が口惜しがって、優勝旗でハナをかんだっけ」

 錦之助とこの同級生たちは小学校時代、C組にいた。先生たちもC組が一番骨が折れると言っていたらしい。中でも、錦之助はやんちゃ坊主だった。
 仇名が「バッテン先生」という九州弁の先生がいた。錦之助はその先生に可愛がられていたらしいが、教練の時間が終って、みんなゲートルを巻いていた時、錦之助だけがモタモタしていた。
 バッテン先生が彼のそばへ行って、「何やってんだ、早くしなさい」とやさしく叱って、階段を上っていくと、彼が下から先生に向かって大声で、「何をいうか、こらバッテン!」と言い返した。それを聞いて同級生たちの方は冷や汗をかいたという。

 錦之助が後年、時代劇のチャンバラスターになったことを裏付ける証言。

「みんなでよくチャンバラをやったね」
「錦坊の影響でぼくたちも好きになっちゃった」
「軽井沢へ一週間いってた時もチャンバラのしどおしだった。いつも彼が先頭でね」


 錦之助がどんな小学生だったかは、これである程度はイメージできるであろう。勉強のことはまるで出て来ないが。

 小学校の勉強では、国語が結構出来たようだ。あとは体育。ほかの学科は一、二年生の頃はまずまず良かったが、どんどん下がって、三年生を終える頃はビリに近かったという。やはり、歌舞伎の子役と学業の両立は難しかった。乳母のよしに、学校の勉強はこれからの役者に大切だとさんざん言われ、ずいぶん勉強を見てもらったが、宿題をこなすだけで精一杯だった。それに、舞台があるため、学校を早退することも多く、勉強に付いていけなくなったようだ。そのため、学校が嫌いになり、怠けがちになった。


小学六年生の時の記念写真 二列目左端が錦之助

 暁星という学校は、カトリックの私立男子校で校則も厳しかった。遅刻をすると、理由の如何を問わず、守衛が職員室のうかがいをたて、その許可を得てはじめて教室へ入れるというのが規則だった。錦之助は舞台が夜まである時は、朝起きられなくて遅刻をすることも多かったので、いつも守衛につかまって、白い目で見られていたにちがいない。遅刻常習犯のレッテルを貼られていたのだろう。また、軍事教練などもわざわざコチコチの教官を集めてスパルタ教育の徹底がはかられていたという。これは、フランス系のお坊ちゃん学校と世間から色眼鏡で見られることに対し、学校側が自粛規制したためで、戦争色が濃くなると厳しさは余計増していった。錦之助が教練の時間に先生に反発するのも分からないでもない。

 学校で錦之助は同級生たちから役者の子と言われ、いじめられていたようだ。錦之助がよく喧嘩をしたのは自分のためより友達のためだったと座談会で同級生が話しているが、弱いものいじめをするヤツ、威張っているヤツが許せなったのだろう。後年の錦之助と同じで、「一心太助」的な性格はこの頃培われたようだ。
 錦之助は友達から役者の話を聞かれたり、自分からその話をするのも嫌っていた。
 ある時、友達が歌舞伎座の楽屋へ錦之助を訪ねにきたことがあった。錦之助がどんなことをやっているのか興味を持ったのだろう。その時、父の時蔵が女形の格好で出て来て挨拶をしたので、友達はびっくりした。翌日、彼は学校で、「小川のおやじ、オンナやってるんだよ!」と言いふらした。歌舞伎の女形などよく分からない小学生たちである。錦之助はみんなにからかわれて、嫌な思いをしたようだ。
 
 錦之助の兄三人も暁星初等・中等学校に通っていた。錦之助が小学校に入った時、長兄貴智雄は中学二年、次兄茂雄は小学六年、三兄三喜雄は小学四年だった。小学校の低学年の頃は、錦之助がいじめられていると、すぐ上の兄の三喜雄が来て、かばってくれた。「オレの弟に何するんだよ」といった具合である。上級生に兄貴がいると違うもので、錦之助に喧嘩をしかける連中も減っていった。そこで錦之助は、逆に弱い者いじめをする連中に突っかかって、自分から喧嘩をするようになった。背は小さいが、向こう気は荒い錦之助であった。

 錦之助にとって、毎年夏休みだけは特別だった。父時蔵が、大磯にある別荘で一ヶ月間家族みんなと楽しく過ごすことを決まりにしていたからだ。錦之助は、泳いだり、虫取りをしたり、釣りをしたりして、自由気ままに羽を伸ばし、子供らしく遊んで、楽しい時を過ごした。




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