錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『越後獅子祭り・やくざ若衆』

2006-06-01 19:51:07 | 旅鴉・やくざ

 錦之助がやくざを演じた初期の作品が二つある。『越後獅子祭り・やくざ若衆』(昭和30年)と『晴姿一番纏(まとい)』(昭和31年)である。前者は、錦之助が初めて本格的にやくざを演じた作品、それも長谷川伸の股旅物のやくざを演じた記念すべき一作で、子供の頃生き別れた父親と幼なじみだった初恋の女の子を探して旅するといった話だった。後者は、山手樹一郎の原作で、錦之助は火消しの小頭で纏持ちだったが、旗本との喧嘩で江戸追放になり、旅鴉のやくざになってしまう。そして、悪いやくざをやっつけたり、窮地にある恋人を救ったりして活躍し、最後は江戸に戻って再び纏持ちになる話だった。
 この二つの映画は、わずか一年の間を経て制作されたにもかかわらず、やくざに扮した錦之助の両作品の演技を見ると、格段の進歩を遂げていることが分かる。前者の錦之助は、自然でさりげない良さが随所に見られるものの、全体的に見ると、演技に気負いが目立ち、役者っぽいセリフ回しで、格好をつけすぎた感があった。それに対し、後者の錦之助は、気負いや勿体ぶったわざとらしさが抜け、自然体でずっと良くなっているのだ。スターとしての自信からか、一種の品格もにじみ出ている。『晴姿一番纏』では、火消しよりやくざの錦之助の方が私にはずっと魅力的だったが、月代(さかやき)を剃らない髷(まげ)と黒っぽい着物をはしょった旅人姿が(モノクロなので色は分からないが濃紺の着物かもしれない)実によく似合っていた。やくざを演じてわずか二作目にして、颯爽として惚れ惚れするようなやくざ姿を披露しているのだ。この頃錦之助は二十三歳、若くしてすでにやくざ姿がサマになっているのだから、大したものだ。『関の弥太っぺ』や『沓掛時次郎』といった後年の錦之助のやくざも立派で良いが、昭和三十年代初めの錦之助の若々しくて粋なやくざも一見に値する。
 『越後獅子祭り・やくざ若衆』は、ベテラン三村伸太郎が(旗一兵と共同で)脚色し、萩原遼が監督した作品だったが、如何せん映画自体の出来があまり良くなかった。ストーリーを複雑にし、脇役をたくさん出したのがそもそもの失敗だった。とくに主要な脇役がややミス・キャスト、性格描写がありまいで、作品の魅力をそいでしまった。片貝の半四郎という主役を演じた錦之助と相手役の高千穂ひづるは良かったが、薄田研二の「瞼の父」役は難しい役柄で、いつもの敵役の憎々しさも抜け切れないままで、正直言って、好感が持てなかった。旅で出会った娘役の千原しのぶもこの頃はまだ演技力が今一歩だった。娘の父親役の清川荘司も無気味でで、どうも役にはまっていなかった。面白くて愛嬌があった場面と言えば、千原しのぶが旅籠の湯に一人で浸かっている時に、錦之助が飛び込んで恥をかくところと、今度はその逆に、錦之助が湯に入っている時に、千原しのぶが飛び込んで、間違えた手ぬぐいの交換を迫るところである。脇役陣で良かったと言えるのは、いかさま師の原健策と端役の旅芸人星十郎だった。それにしても、最後に千原しのぶが原健策の情にほだされ急に好きになるところなど、不自然に思えた。余計なのは、仇討ちだと言って斬り合う二人の浪人(吉田義夫と加藤嘉)が何度も場面に出て来ることで、大袈裟な立ち回りが逆に興ざめで、この二人をストーリーに絡める意味も分からなかった。
 原作は、長谷川伸の『越後獅子祭』で、脚本家の三村伸太郎は戦前にもこの作品の脚本を手がけている。その時の映画は、監督渡辺邦男、主演長谷川一夫だったそうだが、リメイクにあたり相当書き直したらしい。が、映画というのは難しいもので、脚本が良くても、良い映画が出来るとは限らない。むろん脚本が悪ければ、絶対に良い映画は生まれないが…。リメイク版のこの『越後獅子祭』は、出演者と監督に問題があったと思う。錦之助にしても試行錯誤といった演技で、長谷川伸のやくざを演じるにはやや時期尚早だったかもしれない。脇役のキャスティングが良くなかったことはすでに述べたが、父親役を月形龍之介にでもやらせていたら、ずいぶん違ったことになったと思う。萩原遼という監督は、『笛吹童子』や『紅孔雀』といった奇想天外な子供向きの映画を作りすぎて、腕が鈍ってしまったのかもしれない。大人の鑑賞に耐える映画、それも人情の機微や哀感をテーマにしたリアリティのある映画を作る以上、企画制作の段階からもっと入念な準備と演出プランが必要だったと言える。『越後獅子祭り・やくざ若衆』は、演出の練り方が足りず、速成で作った映画という印象を受けた。




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2 コメント

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今さらですが (やましたよしこ)
2006-09-29 08:54:18
錦友会の作品解説からリンクしたので、ずいぶん古い(約4ヶ月前)の記事にコメントしてしまいますが・・・



私はこの映画では、いろいろな形の父と子の姿を描いていて、仇討ちの吉田義男も父を思う子の形のひとつだと思いました。

まだ見ぬ父を思う半四郎、博打にだらしない父を思う娘、人相の悪さで損をしながらも父の仇を打ちたい吉田義男・・・とさまざまな父子を対比しているのだろうと思いました。

娘が突然原健策を好きになるのは、たしかに唐突で笑っちゃいましたが、もう半四郎は無理とあきらめた瞬間、手近にいて自分に惚れているらしい男が急に気になりだす・・・女ってそういうところあるものですよネ。
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どうぞよろしく。 (背寒)
2006-09-29 17:35:57
この記事、今改めて読むと、ずいぶん酷評していましたね…。ちょっと直しますよ。これじゃ、この作品が可哀想だと思います。

そうですね、やましたさんが言うように、テーマは父子愛だった…。でも、子供が父親を慕う気持ちというのは、母親に対するほど強いものでもないし、表現するのが難しいかもしれませんね。「瞼の母」ではなく、「瞼の父」はどうも実感が湧きません。

「女ってそういうところあるもの」ですかね?情にほだされて、といったヤツでしょうが、失恋すると自分に優しくしてくれる男につい心を許しちゃう。やましたさんは、そういう経験がおありなのかもしれませんんね。深く追求はしませんが…。私は男なので、さっぱり分かりません。
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