ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月24日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第15回

下巻 1) 日中戦争 (その3)

 1937年7月7日盧溝橋で銃声が響いた。牟田口廉也連隊長は中国軍への攻撃を命じた。参謀本部の石原作戦部長は事件不拡大の方針を指示したが、武藤参謀は田中真一軍事課長とともに内地3個師団の派遣を準備した。近衛内閣は11日内地3個師団の派兵を決定した。中国派遣軍は7月中に北京、天津地域を占領し、東条英機が指揮する兵団はチヤハル省に侵攻し、華北と内蒙古に戦火が広がった。松井石根司令官は上海派遣軍を率いて、南京攻略を行い「南京虐殺」を引き起こした。犠牲者数は諸説あるが4万人以上と推測される。中国への派遣費力は1939年には85万人に膨れ上がり、軍事費は100億円を突破した。北京、上海、徐州、漢口、広東など主要都市を占領したが、戦争終結の動きは見られなかった。点と線の支配はゲリラ化した中国抗日部隊によって攻撃の対象となり戦局は泥沼化した。蒋介石国民政府は武漢から重慶に移動し太平洋戦争終結まで抗戦をつづけた。1937年10月参謀本部は戦争拡大に歯止めをかける為、ドイツの駐華大使トラウトマンに依頼して蒋介石に講和条件を示した。l講和条件は満州国の承認を前提に、内蒙古の自治、華北の非武装化中立地帯の設定であったが、9ヶ国条約会議を期待していた蒋介石は停戦を条件に一時は交渉に入った。ところが大本営政府連絡会議で講和条件は一気につり上げられ、1938年1月2日蒋介石は和平交渉を拒否し徹底抗戦を選んだ。近衛内閣は第1次近衛声明をだし「帝国政府は爾後国民政府をあいてとせず」と交渉は決裂した。和平交渉はその後も断続的に行われた。なかでも汪兆銘工作が有名である。影佐禎昭、今井武夫は国民党の重鎮汪兆銘に接近し、第2次近衛声明「東亜新秩序」に呼応して、1940年3月南京に汪兆銘政権を発足させた。日中全面戦争の時期に国民党を分裂させて片方と講和条約を結んだとしても、それは傀儡政権と呼ばれるだけのことであった。近衛文麿が政権に着いたのは1937年6月のことで、盧溝橋事件の直前である。五摂家筆頭という名門の出で、高い国民的衆望を担った。近衛首相、広田外相も結局不拡大の方針が陸軍省の強硬論に引きずられていった。その近衛は1937年8月杉田陸相の提案で「シナ軍の暴戻を膺懲し、南京政府の反省を促すため今や断固たる措置を取る」という政府声明を出すことになった。1938年1月に「国民政府を相手にせず」の声明、11月には「東亜新秩序の建設」声明を発表し、大東亜共栄圏構想に引き継がれてゆく。内閣改造に失敗し、1939年1月近衛はついに政局を投げ出した。陸軍は1932年の5.15事件以来政党内閣の継続に強く反対し、軍部と官僚、政党、貴族院による挙国一致内閣が斎藤実内閣、岡田啓介内閣に継続された。1936年の天皇機関説と2.26事件が岡田内閣を直撃した。天皇機関説はそれまで議会中心の政治に理論的根拠を与えていた。しかし政友会の鳩山は党略から統帥権干犯問題を提起し、議会の無力化の墓穴を掘った。2.26事件は政党政治再生の目を完全に潰してしまった。議会は変質し、政府予算はいつも全会一致で成立するようになった。議会は政府を抑制するより、政府を鼓舞する応援団になっていた。1937年9月臨時軍事費特別会計を設けたことから、軍事費は飛躍的に膨張した。ウナギ上りで天井知らずという有様となった。「予算案をほとんど議論もなしに通過してしまう議会はもはや国民に会わせる顔がない。憲政はサーベルの前に沈黙した」といわれた。

(つづく)