ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月16日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第7回

3) 石油エネルギーと経済 (その1)

石油を燃料とする内燃機関の発明により、自動車・戦車・飛行機を活用した機動的な戦争を可能とした。こうした変化は第1次世界大戦戦勝国を中心に、石油の産地を支配下に置く動きを活発化させ、中東地域は英米の企業が進出した。オランダは蘭領東インドを支配し、1930年代に入って世界の石油利権は欧米のものとなった。「石油を持たざる国」ドイツは、ナチスの指導の下「石炭液化計画」に邁進した。1939年には「合成石油」はドイツの全石油供給量の半分を占めるようになった。ドイツは第2次世界大戦の開戦当初、欧州では快進撃を続けたが、英国本土上陸を前にしてこの合成石油だけでは戦争継続は難しくなった。そこでドイツはソ連のコーカサス地方のバクー油田に目をつけ侵攻の方向を東に転じた。石油が対ソ戦の目的の一つとなったのである。ドイツは1941年6月ソ連に侵攻しバクー油田の直前まで迫ったが、兵站を無視した侵攻で皮肉にも石油切れによって挫折したのである。そしてこれを機にドイツはスターリングラードの攻防戦で敗れ敗戦への道を転がり落ちたのである。日本も「持たざる国」であったので、1932年関東軍参謀板垣征四郎は中国の資源供給基地として満州国をでっち上げたのである。しかし満州には石油はなかった。日本の石炭液化計画は微々たるもので生産量は全く期待できなかった。石油の不足分は米国からの輸入であり、1937年で輸入全体に占める米国石油の比率は67%となり、1939年には実に90%に達した。戦争の重要資源である石油を決定的に米国に依存しながら、米国を敵に回すというとんでもない戦略を日本は選択してゆくことになる。このような状況を転換できる千載一遇のチャンスは、ナチスドイツの快進撃であった。1940年にドイツはフランス、オランダを降伏させた。蘭領東インド(インドネシア)のバレンバン油田は日本の年間消費量に達する生産量を持っていた。またフランス領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)も主のいない土地となり、米国依存から逃れる最後のチャンスが現出した。こうして日本軍も政府も、「南方進出」という熱病に取り付かれた。これは俗にいう「火事場泥棒」である。陸軍は独・伊との3国同盟に抵抗する米内内閣を陸相引き揚げによって倒閣した。ここに時の内閣を打倒するという軍部の政治壟断が始まった。跡を継いだ第2次近衛内閣は松岡洋介外相の下で3国同盟を締結すると同時に、日本軍を北部仏印に進駐させた。これは米英の蒋介石援助ルートを遮断するという狙いであった。米国政府は経済制裁を強め、屑鉄の対日全面禁輸という対抗策を取った。鉄がないと兵器や軍艦が作れないのである。近衛内閣はアランダ亡命政府に石油の対日供給量の増大を要求したが、拒否されたので1941年6月オランダとの交渉を打ち切り、7月23日南仏印進駐の挙に出た。日本の南仏印進出は英米を激しく刺激し、シンガポール、フィリッピン、蘭領インドシナ攻撃も近いとアメリカは警戒を強めた。そして8月米国は石油の対日全面禁輸を通告した。海軍は南仏印進出では米国は出てこないだろうという予測を破られ、大いに慌てたという。備蓄してあった石油は2年分、軍部は早期開戦を政府に迫った。12月8日東条内閣は英米に宣戦布告し真珠湾を攻撃し、1942年2月陸軍落下傘部隊は蘭領東インドのバレンバン油田を奇襲しこれを奪った。しかし、バレンバンの石油が順調に日本に届いたのは最初の1年だけで、制空権、制海権を次第に米国に奪われ石油タンカーは次々と沈められ、1945年には石油はまったく届かなくなった。

(つづく)