ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月30日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第21回

下巻 5) 東京裁判

 東京裁判については多くの刊行物があるが、日暮吉延著 「東京裁判」 (講談社現代新書 2008年)と中里成章著 「パル判事ーインドナショナリズムと東京裁判」 (岩波新書 2011年) に詳しいので、本章は簡単にする。日本が無条件降伏した9月2日以降、中国では国民党と共産党は分裂し、日本軍の装備と残留軍100万人の争奪が始まった。蒋介石はシナ派遣軍総司令官の岡村寧次に国民党軍への投降と所在地の秩序維持に当たるように命じた。1949年上海で行われた戦争裁判において岡村は無罪となり、反共のために協力した部隊には蒋介石は寛大に処したという。そして1949年の共産党が全国制覇をなしとげ中華人民共和国が成立した。ベトナムではホーチミンが率いるベトミンが蜂起し1945年9月2日ベトナムの独立を宣言した。フランスはベトナム南部の再支配をもくろんだ。第1次インドシナ戦争の始まりである。1954年ディエンビエンフーの戦いでフランスの支配は終止符を打った。インドネシアではスカルノ議長が独立を宣言したが、オランダと英国が再支配を目指して戦争となった。1949年12月ハーグ円卓会議でオランダはインドネシア独立を承認した。ソ連軍は9月2日まで南進を続け、関東軍の戦死者は8万人を超えた。満州に居住していた民間人の犠牲者は20万人と言われる。スターリンは日本軍将兵50万人を捕虜としてソ連に移送し、シベリアでの建設労働に従事させた。抑留された57万人の日本人のうち5万人以上が死亡した。ロシアのエルツイン大統領は1993年訪日し「シベリア抑留は全体主義の犯罪だ」と謝罪した。1945年8月30日マッカーサー連合軍最高司令官は厚木飛行場に降り立った。ポッツダム宣言の降伏条件のなかに戦争犯罪人の処罰があった。マッカーサーは戦犯の逮捕命令を数次にわたり実施し、A級戦犯人の逮捕者は百人に達した。近衛文麿は12月16日自決した。1946年1月には公職追放令が発令された。連合軍総司令部GHQにキーナンを首席とする国際検察局が設立された。1946年3月にはA級戦犯を26人に絞り込んだ。連合軍の米国以外の国は天皇制に強い不信感を持っていたが、4月3日米国の強い意向で天皇は不起訴と決まった。東京裁判は1946年5月3日東京市ヶ谷の旧陸軍省ビルで始まった。BC級戦犯裁判は国内外の49ヶ所で行われ、5700人が戦争法違反に問われ、山下奉文、本間雅晴ら920人が処刑された。A級戦犯の東京裁判は1948年11月12日判決がいい渡された。判決は以下である。なお裁判中死亡した松岡洋右、永野修身、精神病で除外された大川周明らは対象より除かれた。
「絞首刑」: 東条英機、広田弘毅、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章
「終身刑」: 荒木貞夫、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一、小磯国昭、南次郎、岡敬純、大島浩、佐藤賢了、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、梅津美治郎
「禁固20年」: 東郷茂徳
「禁固7年」: 重光葵
なお、米英仏ソ4か国は「国際軍事裁判条令」を定め、第6条で「平和に対する罪」(A級)、「通例の戦争犯罪」(BC級)、「人道に対する罪」(ナチスホロコースト)の3つの戦争犯罪を定義した。「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であった。

(つづく)