ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月27日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第18回

下巻 3) 太平洋戦争 (その1)

1941年12月8日、山本五十六司令官の率いる連合艦隊の6隻の空母から発進した南雲攻撃機隊は、米国太平洋艦隊が保有する8隻の戦艦に対して壊滅的な打撃を与えた。一方南方戦線では陸軍山下奉文司令官が率いる軍はマレー半島に上陸、台湾の航空基地を出た零戦隊は数日間でフィリッピンの制空権を獲得した。1942年2月には英領シンガポールは陥落し、3月マッカーサー総司令官はオーストラリアに脱出した。この緒戦の華々しい大勝利を東条英機が天皇に報告した際、天皇は「この戦争の大義名分をどう考えるか」と問うと、東条は「目下研究中であります」と言ったという。世界に発信する大義名分があやふやなまま戦争が始まった。海軍は「自存自衛」で「短期決戦」を前提とする意見だが、陸軍は「大東亜共栄圏」を基本とし「長期持久戦」を考えていた。12月8日の宣戦詔書は「自存自衛」を強調したが、2日後の大本営政府連絡会議は「大東亜戦争」と決めた。1942年4月海軍連合艦隊はハワイとオーストラリアの連絡を絶つ目的で、ミッドウエーに米国空母艦隊を誘い出しせん滅する計画を立て始めた。ところが5月海軍軍令部永田修身総長は、ミッドウエーとアラスカのアリューシャン攻略という2面作戦を発令した。全力で当たっても米艦隊より少ないのにこれを2分するという過ちを犯したのだ。ミッドウエー作戦に反対する軍令部とこの作戦で米艦隊を殲滅し講和に持ち込む短期決戦派の山本連合艦隊司令巻の意見が齟齬していた。連合艦隊は空母4隻、艦載機285機を持つ南雲忠一中将率いる第1機動部隊は5月27日広島を発った。山本司令官率いる連合艦隊主力部隊も500km後方に付いた。ところが敵空母は出ないだろうとみて、偵察任務の潜水艦11隻のうち予定通り任務に就いたのは1隻のみであった。米軍は日本軍の暗号を解読し米艦隊はすでに移動し、機動部隊を待ち伏せにしていた。こうして運命の6月5日を迎えた。敵は出てこないとみてミッドウエー島への攻撃のため艦載機は陸上用爆弾を積んでいたが、敵艦隊発見の報を受けて魚雷に積み替える作業を行った。山口多門司令官は南雲長官に対して他d地に出撃を進言したが、まだ時間があると判断した南雲長官と源田実参謀は第1次攻撃隊の帰還を優先した。その1時間後、赤城、加賀、蒼竜の3空母は米軍機の攻撃を受けて大火災を起し航行不能となった。最後の空母飛龍も鉄器の攻撃を受け航行不能となった。こうして連合艦隊が保有する空母6隻のうち4隻が失われた。残った2隻はアリューシャンにいたのである。世界の海軍は伝統的に艦隊決戦思想(大艦巨砲主義)を取ってきたが、日本海軍も日米間戦前には米本土から来航する米艦隊をマリアナ諸島付近で迎え撃つシナリオを描いてきた。山本五十六司令官は「航空主兵論」を主張し、真珠湾攻撃で実証してみせたはずである。ところが軍令部は戦艦が主力で、空母部隊は従とする考えであった。もし米艦隊のように主兵である空母の周囲を戦艦や巡洋艦などで護衛する編成を取っていれば、敵機来襲の対応も違ってきたはずである。主力空母4隻と艦載機285機を失ったミッドウエー海戦の敗北を、海軍はその理由を解析せず学ぶことをしなかった。そして責任追及もなく一切の敗戦情報を遮断秘匿した。米国では真珠湾攻撃で査問委員会が開かれキンメル太平洋艦隊司令官が罷免されたのとはあまりに対照的である。米海軍はこれを教訓として空母中心の艦隊を編成し、艦載機を新鋭のグラマンF6Fに替え空母支援体制の防空システムを徹底させた。この後、連合艦隊は戦うたびに破れ、1944年10月レイテ沖海戦を前に大西第1航空艦隊司令官は特攻隊を編成した。

(つづく)