ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月15日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第6回

2) 日本の対外認識と国際感覚

 第1次世界大戦後の東アジア・太平洋の新秩序は1921-22年のワシントン会議において、中国の主権尊重、門戸開放を定めた9か国条約、海軍軍縮5か国条約、4か国条約の3つの条約が締結された。ワシントン体制と言われる国際協調の枠組みを最初に破ったのが1931年の満州事変であった。若槻内閣の不拡大方針に関わらず、軍部は独断で満州国を建国し、次の斎藤実内閣はこれを追認した。国際連盟はリットン調査団を満州に派遣し日本軍の撤兵を勧告した。これを不服として日本は国際連盟を脱退してしまう。1937年に日中戦争が始まると、国民政府は南京から重慶へ移り、1940年南京には日本の傀儡政権である汪兆銘政権が発足し、ますます9か国条約の原則からほど遠い状況となった。第1次近衛内閣の有田外相はグル―米大使に9か国条約の破棄を示唆したという。軍事力で枠組みを勝手に変更し、旧条約の状況は変化したと称するのは、多くの国からルール違反だと非難された。明治政府は欧米諸国の法システムを積極的に取り入れることで文明国の評価を得るため、捕虜の扱いを定めた1907年の法規慣例に関する条約にも加入した。1しかし列強の一角に上った日本の捕虜扱いは次第に過酷なものに変化した。捕虜の待遇に関する1929年のジュネーブ条約は、調印しながら批准は見送られた。東条英機は「戦場訓」で「生きて虜囚の辱めを受けず」という自決を促し、敵国の捕虜に対して厳重な態度で臨んだ。1942年のフィリッピンの「パターン死の行進」でアメリカ人とフィリッピン人約3万人を死に至らしめた。同じ過酷な運命は自国民のソ連軍によるシベリア抑留となって戻っている。戦後東京裁判においてBC級戦犯裁判では5700人が捕虜虐待・民間人殺戮で戦争法規違反に問われ、920人が処刑された。1937年7月の盧溝橋事件に関しては米国は「自制を求む」と反応したが、日中戦争が激化する中で米国は態度を硬化させていった。この辺を日本政府は全く読めなかった。10月ルーズベルト大統領は日本を「無法国家」と非難した。中国への侵略的行動を「持たざる国の自衛」として正当化する日本と、国際協調の理念に基づいて「平和的な調整」を要求する米国との食い違いに近衛内閣の感覚は鈍感であった。1939年7月米国は日米通商条約の破棄通告を行い強硬策に転じた。にもかかわらず日本は天津の英租界封鎖を行い米英を敵に回したのである。1941年7月日本軍の南部仏印進駐を米国はフィリッピンへの脅威とみて、対日石油禁輸を決断した。日米開戦の直前の1941年11月、米国の春国務長官は対日解答(ハル・ノート)を示し「中国からの撤退」を求めた。この最後のチャンスも無視して太平洋戦争に突入したのである。松岡洋右外相は1941年4月、ベルリンからモスクワに移り、スターリンとの間で日ソ平和条約を結んだ。ソ連の対ドイツの欧州戦線へ勢力集中するための(2ヶ月後に独ソ開戦)時間稼ぎであったこと見抜けず、日独伊にソ連を加えた4か国同盟と取られた松岡の思惑は、「あまりの現実感のなさ」とか「ドイツの戦果に期待しすぎた他力本願世界観」といわれている。陸軍の仮想敵国は終始「ソ連」であった。ところが「持たざる国と現情事を図るデモクラシー国家群の対立」とみれば、「対ソ」から「対英米仏」へ向かうはずのものであった。枢軸派外交を展開する松岡にはこの国際感覚もなかった。この日本外交の過誤は終戦直前にも繰り返された。1945年5月終戦への斡旋をソ連に打診しようと、近衛元首相を訪ソさせる計画が持ち上がったが、散々待たされたあげく8月にはソ連の開戦通告が届いた。「愚策中の愚作」と酷評される日本外交の最後であった。日中戦争では日本は中国の民族主義の力を最後まで理解しなかった。中国の社会は匪賊・軍閥の割拠する社会で、日本軍は個別に軍閥と交渉し内戦を収束させる方針であったといわれるが、国共合作に見られる抗日運動のうねりと中国統一への情熱が政治を支配してゆくことの反作用を理解できなかった。

(つづく)