ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月22日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第13回

1) 日中戦争 (その1)

ここより戦争の歴史的展開となる。日中戦争、日米開戦まで、太平洋戦争、終戦工作、東京裁判までが戦争の歴史で、最後に戦争責任検証最終報告が加わる。1931年に起きた満州事変から日中戦争を検証することになる。ここに至るまで日本と中国の関係は、明治以来の台湾征伐、日清戦争、日露戦争、第1大戦後の3国干渉の歴史の中での展開なのであるが、本書では昭和時代からの日中関係から入る。日本陸軍が第1次世界大戦後の国際秩序の挑戦して満州(現・中国東北部)占領を企画した満州事変から始めることにする。日露戦争で長春ー旅順の南満州鉄道の権益を得ると軍隊を派遣した。明治時代に陸軍参謀総長だった児玉源太郎は満州国樹立の構想を持ったが、「満州は厳然とした清国領土である」とした伊藤博文になだめられたという。それ以来「満蒙問題」は伝統的な陸軍の基本政策になった。第1次世界大戦中、欧州列強国の影響力が薄くなった時を狙って(火事場泥棒式に)「対華21か条の要求」を突きつけた。これに憤った中国のナショナリズムは高揚し、中華民国の孫文の後継者蒋介石は反日姿勢を強め「北伐」を開始した。そしてその勢いは満蒙に迫った。一方ウイルソン米国大統領の提唱により国際連盟が設立され、東アジアの国際秩序作り(ワシントン体制)が進められた。特に9ヶ国条約では中国の主権と領土保全の尊重が約束された。1923年の「帝国国防方針」にアメリカが仮想敵国として浮上した。当時の中国では軍閥が割拠しており、日本は北方軍閥の張作霖を後押しした。田中義一内閣は1927-28年に山東に出兵し、満州に駐留する関東軍は、満州東三省(遼寧・吉林・黒竜江)と熱河地方を統治する親日政権を作る方針を作成し、1928年6月張作霖爆殺事件を引き起こした。その策謀の中心人物は河本大作参謀であった。ところが張作霖の息子張学良は国民政府に参加し排日運動を展開した。満州事変をしかけたのは陸軍と関東軍だった。1928年3月陸軍省と参謀本部の症候で作る「木曜会」に鈴木貞一、永田鉄山、岡村寧次、東条英機、石原莞爾、根本博らが集まり、「満蒙に完全な政治的権力を確立する」。それには「ソ連との戦争、アメリカとの戦争も準備すること」を確認したという。1929年5月陸軍の将校の勉強会「木曜会」は「双葉会」と連合し「一夕会」という新集団を結成した。新たに加わったメンバーに武藤章、田中新一、富永恭次が加わり、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎をトップに仰いだという。陸軍中央では「満蒙問題解決方策の大綱」が1931年6月に策定された。そこには「政府において軍お意見に従わない場合は、断固たる処置にでる」という文言があり、これがのちの3月クーデター未遂事件につながってゆくのである。南次郎陸相も「軍人は軍政という政治を担当するので、元来政治に干与すべき本分がある」という見解であった。関東軍参謀の石原莞爾は「世界査収戦争論」で、西洋の中心たる米国と東洋の代表である日本の覇権争いによって世界の体系は決定される」と思い込んでいた。石原・板垣・花谷の3人で満州占領計画を研究したという。1931年9月18日夜奉天の柳条溝で満鉄線が爆破された。仕掛けたのは河本中尉であった。石原らは吉林に出兵し、手薄となる奉天に朝鮮軍の増援を頼むことであった。関東軍司令官本庄繁と朝鮮軍司令官林銑十郎の合意が必要であった。本庄は板垣征二郎に説得され、林銑十郎司令官は独断で奉天に越境した。9月22日清朝の廃帝溥儀を擁立を図った。溥儀の擁立に動いた奉天特務機関長土肥原賢二は「今後の収拾に溥儀の擁立を必要とする場合、政府がこれを阻止することは許されない。この際政府方針のごときは問題に非ず」という態度であった。政府あって政府を無視することはこれは軍閥のなすことである。関東軍という軍閥が満州国という手前勝手な政府を作ったことは、日本はもはや文治国ではないということである。関東軍が起した満州事変の時の若槻礼次郎内閣は「事件の不拡大方針」を決め乍ら、軍の行動は追認した。決心を迫る南陸相に対して、ワシントン体制を守る幣原外相は事態を小範囲に限定すべきという意見であった。若槻首相は天皇の裁可もなく軍を動かした事態に動揺し、これを問題とすることもできず追認という有耶無耶に終始したのである。死に値する行為である天皇の統帥権を無視し、政府の考えを踏み倒し、満州国樹立という大芝居を敢行した関東軍参謀を増長させた原因は、1928年張作霖を爆殺した河本大作の処置の甘さに由来する。又陸軍参謀による1931年3月クーデター未遂事件と10月クーデター未遂事件の処置の甘さが、無責任な風潮を助長させ、何をやっても罰せられないという事実が軍将校の暴走を招いたといえる。中国は1931年9月日本の軍事行動は不法であると国際連盟に提訴した。中国は国際世論を味方につける戦略をとった。

(つづく)