ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月17日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う  第8回

3) 石油エネルギーと経済 (その2)

 昭和初期の経済政策は、民政党浜口雄幸内閣が1930年に打ち出した「金解禁」(金本位制に復帰)であった。蔵相の井上準之助はそのため公債を出さない極端なまでの緊縮予算を敷いた。その直前世界恐慌が襲った。この金解禁と世界恐慌のダブルパンチで経済は大きく後退した。1931年のGDP18%減、輸出47%減、個人消費17%減、農産物物価も米価で40%減、大卒の就職率も40%に過ぎなかった。恐慌による歳入欠損を埋めるため公債を出さないとする井上財政は挫折した。犬養毅内閣の発足後、高橋是清蔵相は金輸出の再禁止を決定し、財政拡張と金融緩和、景気回復を図るリフレ政策(物価上昇策)を取った(まさにアベノミクスはこれの模倣)。このため高橋財政の下、財政規模は一気に2倍に膨らんだ。満州事変による軍事費増大、農村救済の公共事業費、赤字国債の発行と日銀引き受け、円安誘導による輸出増加(デフレからインフレへの経済政策とはいつの時代も同じ手を使うものだ)によって、1935年に日本経済の景気は回復した。しかし歴史は残酷なもので、この時期の経済を指導した首相と蔵相達(浜口首相、犬養首相、井上蔵相、高橋蔵相)は、右翼や軍部によるテロによって全員暗殺された。マクロ経済政策は経済指標の上ではうまくいったとしても、生活の苦しさと社会の不満は解消しなかったのである。2.26事件後に成立した広田弘毅内閣の馬場蔵相より、財政規律無視の国債乱発の始まりとなった。1937年軍事費は高橋蔵相時代の1.5倍に膨張した。輸入の増加から外貨準備金がなくなり国際収支危機を迎えた。日中戦争と太平洋戦争の15年間の軍事支出はGDP34年分に達した。国家財政は破綻し、戦後のハイパーインフレを招いた。1932年3月三井財閥理事長の団琢磨が「血盟団」によって暗殺された。暗殺の起きた理由は、犬養内閣の金輸出再禁止策で、円暴落(ドル急騰)を見込んだ三井財閥のドル買い締めにあったといわれる。テロに恐怖した財閥系は軍部や右翼に大量の寄付金を振り向け、軍と財閥を接近させた「軍財抱合」の構図が深まった。また財閥系企業の株公開によってえた巨利は、軍特需に答える設備投資に回された。満州事変後の軍事費拡大は、軍需産業を大いに潤したという。特に新興財閥と呼ばれる日産、日窒、森、日曹、理研などで、鮎川義介が率いる日産コンツエルン(日産自動車、日立製作所、日本鉱業ら)は満州国官僚岸信介の誘いを受け満州に進出した。鮎川は石原莞爾の構想による「満州産業開発5か年計画」の実行に協力する。だが厳しい満州政府の規制を受け鮎川は満行総裁を辞任し1942年に撤退することになった。戦時経済で財閥は膨張を続け、三菱重工業は日本の軍艦の4割、航空機の2割を生産した。まさに三菱は明治政府以来戦争の度に大きくなった感がある。4大財閥三菱、三井、住友、安田)の資本金総額は1945年には日本全体の25%まで上昇した。アメリカ政府は財閥を「日本における最大の戦争潜在力」と見なし、終戦後すぐに財閥解体を手掛けたが、財閥系各社はグループ化して株の持ち合いを強め、日本型法人資本主義を形成した。開戦当時(1941年)の日米の主要物質の生産高比較は、いわば国力の差と理解される。石炭で9.3倍、石油で無限大、手功績で74倍、鋼で12倍、銅で11倍、鉛で27倍、アルミで5倍、平均すると78倍米国の方が勝っていた。この日本の生産力は終戦時には1941年の24%まで落ちていた。日本経済は崩壊に追い込まれていたのである。

(つづく)