ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 羽田 正著 「新しい世界史へ」 岩波新書

2012年10月22日 | 書評
「ヨーロッパ中心主義」による世界史からの脱却 第4回

1)世界史の歴史 (2)
 世界史なる分野が生まれたのは戦後のことである。占領政策下、1951年の学習指導要綱で「東洋史」、「西洋史」という科目が消え世界史となり、日本史は社会科の中に消えた。大学では戦前と同様に「国史」、「東洋史」、「西洋史」の研究と教育が続けられた。1951年の学習指導要綱の世界史は近代以前の社会、近代社会、現代の社会の3部構成となった。今日では近代以前を古代、中世、近世と細分することが多いが当時はそうではなかった。ヨーロッパとアジアという2項対立的な枠組みが意識的に用いられ、しかし内容的・分量的には圧倒的にヨーロッパに重点が置かれていた。つまり西洋の歴史が軸となる世界史であった。その後10年間に1回の割合で指導要綱の改定がなされ、世界史の捉え方が「東洋と西洋」から「文化圏」そして「地域世界」という風に変化し、露骨な西洋優位主義は影を潜め、ヨーロッパもそのひとつである地域世界が並立する世界史へ変っていった。家永三郎氏の教科書検定訴訟とともに有名な、上原専禄氏の「日本国民の世界史」という隠れたベストセラーがある。1953年上原専禄氏を始めとする7人の歴史研究者で執筆されたが教科書検定で不合格となったため、1960年上原専禄・江口朴郎共著「日本国民の世界史」(岩波新書)として出版された。 国民の生活意識を確立するために世界史像の形成を試みたという「国民的歴史学運動」のひとつの墓銘碑となった。ここまで志の高い世界史はこれが最後であろうか。ちなみに上原氏は本書出版後一切の公職を引退し京都で隠遁生活に入った。この書は第1部に東洋文明の形成と発展を設けて、中国文明、インド文明、西アジア文明を記述し、西欧文明とあわせて4つの独立性の高い文明圏を展開した。日本人のための世界史は東アジアから始めて西欧にいたる歴史を説くべきだと主張した点が画期的である。
(つづく)

読書ノート 大瀧雅之著 「平成不況の本質」 岩波新書

2012年10月22日 | 書評
平成不況はデフレによるものではなく、構造改革(金融自由化)のためだ 第12回

2)構造改革とは何だったのか、今何が求められるか (2)
 構造改革期の10年は、日本人が持っていた優れた資質、「勤勉」、「強調」、「誠実」の精神が根本から踏みにじられた10年であった。構造改革の本質とは、社会的・組織的に蓄積された様々な資産・資源をただ同然で切り売りすることで、私的に金銭的利得を得ようとする運動であった。アダムスミスの昔から「共有地の悲劇」と言い表されている社会的インフラの食いつぶしである。それをアメリカグローバル金融資本の圧力下で行われたところに小泉政権の反社会性が浮き彫りにされる。「市場型間接金融」とは銀行の証券会社化のことである。貸し手が直接借り手に金を融通する証券会社(直接金融)と、預金者の金を預かって有望な企業に投資する銀行(間接金融)に分かれる。そのとき銀行は資産の変換というリスクを宿命的に持つ。すると銀行には「審査能力」が求められる。これが「情報の生産性」である。堀内・花崎氏は銀行には昔から審査能力は養われていなかったと主張する。第3次産業への投資はさらに審査を困難にし、安易な土地担保金融への依存を深めこれがバブルの原因となったのである。バブル後も銀行は「スコアリング」という簡易で数値に頼る手法で客の顔をしっかり見ていなかった。怪しげな数値で判断することで東京都の新銀行東京は債務超過となった。そして銀行が証券化することは、この審査能力を放棄し、投資・貸し出しリスクを顧客に転稼する経営戦略を取り始めた。信託証券という分散投資が安全なのは短期ミクロの動きに対してであって、3回の金融恐慌で株価のマクロの値下がりには全く無力である事が判明した。やはり銀行に証券を扱わせることは危険であり、「ナローバンキング」に徹すべきではないかというのが著者の主張である。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「感亡姉旧居」

2012年10月22日 | 漢詩・自由詩
花狼藉涙空稠     花狼藉 涙空しく稠し

哭雨侵階葉落秋     哭雨は階を侵す 葉落の秋

双燕梁間流水恨     双燕梁間より 流水恨み
 
何堪遺跡夕陽愁     何ぞ堪へん遺跡は 夕陽に愁う


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(韻:十一尤 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)