ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 大瀧雅之著 「平成不況の本質」 岩波新書

2012年10月13日 | 書評
平成不況はデフレによるものではなく、構造改革(金融自由化)のためだ 第3回

序(3)
 本書は日本における企業所得と雇用者所得の格差拡大に見られるように、「反社会的」(道徳的意味ではなく、個人が社会のネットワーク無しに生活できると理解する社会的意味である)への変化であるを重視する。経済学は「所得配分の公正性」というが、社会は職業の多様性に象徴されるように「互恵性」で成り立っている。経済的には社会的分業の上に成立しているという。そのため近代化は国民国家を単位として形成されてきた。人間は社会的存在であると認めたら失業こそは所得配分の不公正を招く最大原因である。新自由主義(小泉流構造改革)では所得格差を「報われる社会」と美名で飾り、「勝ち組負け組み」と弱者を蔑視してきた。自分が優位にある事を当然視して誇る論理である。選民思想に通じきわめて反社会的な危険な考えである。失業こそ所得配分の不公正を招く最大の原因である。本書は「失業問題」を平成不況を解き明かす出発点とする。ひとりがよければという考えは社会を空洞化(真空化)し、地域社会を崩壊させた。まだアメリカ社会ほどの失業率ではなく、極度な貧困ビジネスでもない日本経済は立ち直る社会的な強さが残っていると筆者は説く。これ以上アメリカの物まねは止めよというのが本書の結論だろう。では次に経済指標をつかって平成不況の本質と構造改革社会から立ち直る政策を考えてゆこう。
(つづく)

文芸散歩 徳善義和著 「マルティン・ルター」 岩波新書

2012年10月13日 | 書評
キリスト教会の一元支配を改革し欧州の中世を終らせたマルティン・ルター 第7回

1)ことばとの出会いー神の義(律法と福音)の理解
 1483年ドイツ東部のザクセン地方のアイスレーベンという町でマルティン・ルターが生まれた。父ハンスは一代で鉱山精錬企業家となった努力の人であったという。ハンス・ルダーはルターを大学に入れて法律家にしようという当時では稀な教育熱心な父であった。まずマンスフィールドの教会付属学校に通わせ、13歳になるとマクデブルグ大聖堂付属学校にはいり、1501年18歳のルターはエルフェルト大学に入学した。1502年教養学士を卒業し、1505年(22歳)に教養学修士となった。そして専門学部は父の希望で法学部に入学したが、1ヵ月後帰省中に落雷に遭遇し修道士になる事を決意したという。ルターはアウグスティヌス隠修修道会に入会した。これがルターの人生の転回点となった。毎日がラテン語の「詩篇」の朗読と聖書読みであった。6世紀以来集団修道院の理想は「清貧」、「貞潔」、「服従」に徹した。こうして葛藤に満ちた修道士生活であったが、1507年(24歳)ルターは司祭に叙された。13世紀以来哲学と神学において主流を占めたのは、トマス主義の「実在論」と、オッカムの「唯名論」であった。実在論は観念論として、人間総体の存在と本質を問うもので、唯名論はその反対論で人間総体とは名ばかり(唯名)で存在せず、存在するのは個々の個体であるとみる。個体こそ実在して、その実在は意思と能力によって確認されるというものであった。ルターが在席していたエルフェルト大学神学部はオッカムの学風で知られていた。神の前に立つ個体が意思と能力の限りを尽くして努力すれば救われるという救済論は人間中心主義の能動論である。それに対してルターはそうした努力に懐疑心を持ち葛藤に悩んでいた。1511年(28歳)修道会に命じられてルターは籍を創設間もない(ライプツィヒ大学に対抗して、1502年選帝侯により創設された)ヴィッテンベルグ大学に移した。そこの聖書教授となった。ルターは詩篇講義を受け持ち、神の義(正しさの神)について全く新しい認識を得たという。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「人生汲汲」

2012年10月13日 | 漢詩・自由詩
西城朝雨水空波     西城朝雨 水空しく波だち

紫岳溟濛寒雁過     紫岳溟濛 寒雁過ぐ

積学孜孜春日少     積学孜孜と 春日少く
 
功名汲汲苦人多     功名汲汲と 苦しむ人多し


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(韻:五歌 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)