「ヨーロッパ中心主義」による世界史からの脱却 第2回
序(2)
著者は「最近、歴史学と歴史研究者に元気がない」とつぶやく。しかしテレビでは大河物語として歴史物は相変わらず人気がある。昨年は日露戦争を描いた「坂の上の雲」、徳川秀忠の妻「お江」の物語が人気を博し、そして今年は「平清盛」が始まる。ものすごく現代的でとても歴史とはいえないセリフが出てきて違和感を覚えるが、所詮歴史とは今を生きる人間の過去を見る目であるからこそ力があるのだ。今や歴史学は現代人の興味をなくしているかずれている。「靖国神社参拝問題」に端を発する日韓中の歴史共同研究などには誰も興味は持てない。まして安倍元首相のいう「美しき日本」は教育勅語や皇国史観の亡霊が出てきそうで危なくて近寄れない。私たちが学び、知っている世界史は、もう時代に合わなくなってきている。現代の人が興味を持てる世界史を必要としている。戦後、復興を願い時代を先導する歴史学の時代があった。それは近代主義とマルクス主義の歴史学であった。ライバル同士が欧米に追いつく事を至上命題とする戦後の日本社会の骨格と方向性を議論したからである。日本の高度経済成長期に歴史が人を動かす力を示したのだ。これらはランケ、ミシュレといった19世紀の国民国家の歴史が勃興した時期もそうであった。時代にふさわしい歴史の話題が提供されると、人々の間に活発な議論が起り、時にはそれが社会全体を動かすエネルギーとなる。ではなぜ歴史学研究者のセンスが社会とずれてしまったのだろうか。時代がエゴ丸出しか覇権主義の国民国家の時代から、すでに地球全体で考えないといけない時代になっているのに、なぜか2.30年前で歴史研究が止まっている。研究テーマは細分化され、時代遅れのテーマで誰も読まない論文が拡大生産されているのだ。なぜそのような研究をするのかという自覚が明確ではない。現代には現代が必要とする歴史認識があるはずだ。現代世界が一体の構造で連結しながら働いていることは明白である。つまり「地球社会の世界史」が求められている。著者は「現在私たちが学び,知っている世界史は、時代に合わなくなっている。現代にふさわしい新しい世界史を構想しなければならない」と提案する。
序(2)
著者は「最近、歴史学と歴史研究者に元気がない」とつぶやく。しかしテレビでは大河物語として歴史物は相変わらず人気がある。昨年は日露戦争を描いた「坂の上の雲」、徳川秀忠の妻「お江」の物語が人気を博し、そして今年は「平清盛」が始まる。ものすごく現代的でとても歴史とはいえないセリフが出てきて違和感を覚えるが、所詮歴史とは今を生きる人間の過去を見る目であるからこそ力があるのだ。今や歴史学は現代人の興味をなくしているかずれている。「靖国神社参拝問題」に端を発する日韓中の歴史共同研究などには誰も興味は持てない。まして安倍元首相のいう「美しき日本」は教育勅語や皇国史観の亡霊が出てきそうで危なくて近寄れない。私たちが学び、知っている世界史は、もう時代に合わなくなってきている。現代の人が興味を持てる世界史を必要としている。戦後、復興を願い時代を先導する歴史学の時代があった。それは近代主義とマルクス主義の歴史学であった。ライバル同士が欧米に追いつく事を至上命題とする戦後の日本社会の骨格と方向性を議論したからである。日本の高度経済成長期に歴史が人を動かす力を示したのだ。これらはランケ、ミシュレといった19世紀の国民国家の歴史が勃興した時期もそうであった。時代にふさわしい歴史の話題が提供されると、人々の間に活発な議論が起り、時にはそれが社会全体を動かすエネルギーとなる。ではなぜ歴史学研究者のセンスが社会とずれてしまったのだろうか。時代がエゴ丸出しか覇権主義の国民国家の時代から、すでに地球全体で考えないといけない時代になっているのに、なぜか2.30年前で歴史研究が止まっている。研究テーマは細分化され、時代遅れのテーマで誰も読まない論文が拡大生産されているのだ。なぜそのような研究をするのかという自覚が明確ではない。現代には現代が必要とする歴史認識があるはずだ。現代世界が一体の構造で連結しながら働いていることは明白である。つまり「地球社会の世界史」が求められている。著者は「現在私たちが学び,知っている世界史は、時代に合わなくなっている。現代にふさわしい新しい世界史を構想しなければならない」と提案する。
(つづく)