アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「南京大虐殺のユネスコ登録」は外交問題ではない

2015年10月15日 | 戦争・安倍政権

   

 ユネスコの世界記憶遺産に日本帝国陸軍による「南京大虐殺」に関する資料が登録されたことに対し、安倍政権はユネスコが「中国の政治利用」に加担したとして、ユネスコへの拠出金を停止・削減するという脅しをかけています。

 これには身内からも「日本の国際的な存在感の低下に拍車を掛け、墓穴を掘るだけだ」(松浦晃一郎前ユネスコ事務局長、15日付沖縄タイムス=共同)という声が出ているように、またしてもカネで圧力をかけようとする日本政府の愚行です。

 しかしこの問題でさらに重大なのは、日本のほとんどすべてのメディアが、「日本外交にとって有益だろうか」(14日付朝日新聞社説)などと、これを「外交問題」「日中問題」として報じていることです。
 「南京大虐殺」の記憶遺産登録、さらに安倍政権による中国への抗議、ユネスコへの圧力・脅しは、けっして「外交問題」(だけ)ではありません。私たち自身が問われている日本の「国内問題」です。

 そもそも、安倍政権は「南京大虐殺のユネスコ登録」の何を問題にしているのでしょうか。
 外務省の「抗議談話」(10月10日)は、「日中間で見解の相違がある」にもかかわらず「中国の一方的な主張に基づき申請されたものであり、当該文書は完全性や真正性に問題がある」としています。ではその「問題」とは何なのか。具体的な内容についてはまったく触れていません。

 日本帝国陸軍によって「南京大虐殺」の蛮行が行われたことは、まぎれもない歴史的事実です。
 たとえば当時外務省東亜局長だった石射猪太郎は日記にこう記しています。「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼之が皇軍か」(吉田裕氏『現代歴史学と戦争責任』より)
 だから菅官房長官さえ、「旧日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害、略奪行為があったことは否定できない」(2014年2月、11日付朝日新聞)と認めざるをえなかったのです。

 だとすれば日中間の「見解の相違」とは「30万人」という犠牲者の数ということになります。確かに「30万人」には異論があるところです。しかし東京裁判では「20万人以上」とされ、日本側の調査でも「20万人を下らない」というのが定説です。
 「犠牲者20万人」なら問題はないが、「30万人」は「極めて遺憾」(外務省談話)だというのでしょうか。そんな理屈は通用するはずがありません。「諸外国から『虐殺自体は認めているのに、なぜ規模をめぐりそこまで怒るのか』(在京の東南アジア外交筋)と受け止められる懸念がつきまとう」(14日付沖縄タイムス=共同)のは当然です。

 通用しない理不尽な口実で、安倍政権が南京大虐殺の記憶遺産登録に反発している本当の理由は何でしょうか。
 その本音を、安倍首相は14日の中国外交トップ・楊国務委員との会談で吐露しました。「過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく未来志向の関係を構築するべきだ」(15日付各紙)

 想起されるのは、安倍首相の「戦後70年談話」です。
 「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない
 日本の東アジア侵略という歴史の事実、加害責任を帳消しにしようというのです。それが、「積極的平和主義の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献」(「70年談話」)するとして、戦争法を強行したことと表裏一体であるのは言うまでもありません。

 こうした安倍政権による「日本の負の歴史」の帳消し(歴史修正主義)を許すのか、黙認していいのか。歴史の事実と加害の責任に正面から向き合い、次の世代に引き継いで、東アジアの国ぐにとともに生きてゆく日本の進路をさぐることこそ私たちの責任ではないのか。問われているのは、私たち自身です。

  「南京大虐殺」、あるいは「首相らの靖国神社参拝」「慰安婦問題」を中国や韓国との「外交問題」としかとらえないのは、重大な誤りです。その誤りを助長しているのが日本のメディアです。
 それは、沖縄の米軍基地問題を自分(本土)とは関係ない「沖縄の問題」としか見ないことと根は1つです。

 「日本の歴史」、とりわけ「負の歴史」に対して、第三者・傍観者であることから、1日も早く抜け出さねばなりません。

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