20日の施政方針演説で安倍晋三首相は、自身や自身が任命した元閣僚らの数々の疑惑には一切口をつぐみ、「東京五輪の成功」を前面に出しました。これは「東京五輪」の政治利用にほかなりません。警戒すべきは、「東京五輪」が国家主義、偏狭ナショナリズムの高揚に利用されようとしていることです。
そのことに警鐘を鳴らし、抗うことを主張している最近の注目される発言を2つ紹介します。
1つは、作家の星野智幸氏が、上野千鶴子氏との対談で述べていることです(1日付中国新聞=写真中)。
星野氏は昨年のラグビーW杯を振り返り、ラグビーチームが国籍にかかわらず編成できる多国籍チームだったことを評価しながら、こう述べています。
「多様性を実現したラグビー日本代表も、日本という記号を消費するための道具とされ、東京五輪の前哨戦のように扱われるのには複雑な思いです」
上野氏が「『日本勝った』『日本すごい』とナショナルなアイデンティティーに回収されてしまう」と応答したのを受け、星野氏はさらにこう続けました。
「スポーツを取り込もうとする政治にあらがう理想型は女子サッカーです。昨年のワールドカップで優勝した米国代表のラピノー選手は、政治利用を狙ったトランプ大統領に強烈な異議を突き付けた。…レズビアンの彼女は、多様性の生きた見本として自分を見せている。スポーツがナショナリズムに加担しにくい状況をつくり、兵士の心身の形成に密接に関わってきた近代スポーツから脱皮しようとしている。五輪に風穴をあけ違う文化に変え得るのは、女子サッカーなどの女子スポーツだと思います」
もう1つは、「個人」として「東京五輪」に向かう重要性を強調した、将基面貴巳(しょうぎめん・たかし)氏(ニュージーランド・オタゴ大教授)のインタビュー記事(8日付沖縄タイムス=写真右)です。抜粋します。
<五輪は、ナショナリズムを世界中にまき散らすという大きな問題をはらんでいます。日本の選手は日の丸を身に着け、優勝すれば君が代を歌う。
昨年、天皇の代替わりに伴う「即位礼正殿の儀」などの行事を通じて、国家の持つ「神社性」が顕在化しました。国民はその映像を見て、無自覚に「感情共同体」に参加してしまう。そうした「何となく愛国」は非常に危険です。
国家に強くコミットしているわけではないのに、素朴に「日本はすごい」と感じる傾向を、私は「ぬくぬくナショナリズム」と呼んでいます。「日本を愛するのは当たり前」と思考停止に陥れば、同調圧力がのさばって中立的な人たちまでもが敵視されるようになる。…「ぬくぬく」では、為政者に簡単に操作されてしまいます。
重要なのは「他人はともかく自分は」という態度です。愛国的かどうかは個人の問題であるべきです。他人に義務として押し付ければ、非寛容な社会になってしまう。
五輪も日本代表かどうかにこだわらず、選手個人が努力の結果、秀でた能力を発揮する場として楽しめば良いのではないでしょうか。将来は国旗も国歌も関係なく、気づいたら「あのメダリストはどこどこの国の人だったんだ」となればいいですね。>
たいへん共感できる主張です。「国旗・国歌」「愛国」を強制している筆頭が安倍首相であり、森喜朗五輪組織委会長です。「思考停止」こそ大敵です。
「将来」は、「国旗も国歌も関係ない」だけでなく、そもそも「国家」という人を隔てる権力バリアがない社会にしたいものです。