アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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「沖縄慰霊の日」・欺瞞に満ちた本土メディア

2017年06月24日 | 沖縄・メディア・文化・思想

     

 「6・23沖縄慰霊の日」の式典で、安倍首相は沖縄への「米軍基地の集中による大きな負担」は「到底是認できるものではない」などと言いました。沖縄の民意を踏みにじって辺野古新基地建設を強行している張本人が、よくも言ったものです。その厚顔無恥にはあらためて怒りが湧いてきますが、ここでは「6・23」をめぐる本土メディアの論説・論調の問題を考えます。

 23、24両日、「沖縄」の社説を掲載した全国紙は朝日、毎日、読売、産経の4紙でした。自民党・安倍政権の広報紙として辺野古新基地建設を鼓舞する読売、産経は、あえて取り上げません。
 問題は、沖縄に寄り添っているかのような姿勢を見せているメディアの欺瞞性です。

 「朝日」の社説(23日付)は、「遺骨」問題に特化させ、最後に「沖縄はいまも米軍基地の重い負担にあえぐ。沖縄戦を知り、考え、犠牲者に思いを致すことは、将来に向けて状況を変えて行くための土台となる」としながら、現在進行形の「重い負担」である辺野古新基地には一言も触れていません。

 「毎日」の社説(23日付)は、「過重な米軍基地負担は沖縄戦の痕跡だ」としながら、「政府が『反基地』の県民感情を直視する姿勢を示さなければ、対立は先鋭化するばかりだろう」と、政府に下駄を預ける一般論で終わっています。

 中国新聞の社説(23日付)は、辺野古や「土人」発言などの問題点を指摘したうえで、「政府は…丁寧に対話を重ねるべきだ。私たち国民も、『痛み』を共有する努力を忘れてはならない」といいます。「痛みの共有」とはどういうことでしょうか。

 NHKは23日夜の「ニュースウオッチ9」で、キャスターが「現地レポート」を踏まえ、「(沖縄と本土の)壁は高くなっている」とし、「私たちが沖縄を分かろうとすることが大切」とコメントしました。沖縄の何を「分かろう」というのでしょうか。

 報道ステーション(23日、写真右)は、「沖縄ヘイト」をとりあげ、「沖縄と本土には新たな溝ができている」とし、ゲストコメンテーターは「人(沖縄の人)のために行動することをやってみたい」などと述べました。「人のため」という発想は根本的に間違っていませんか?

 こうした論説・コメントには重要な共通点があります。「県民感情を直視する」「『痛み』を共有する」など聞こえのいい言葉を並べながら、目下の現実的な基地負担とりわけ辺野古新基地建設をどう考えるのか、どうするのかについては、具体的な主張が何もないことです。

 「6・23」にあたって、本土メディアは少なくとも次の2点を明確にすべきです。
 ①沖縄の基地負担が過重だというなら、辺野古新基地建設(普天間基地の県内移設)反対を明言すること。
 ②したがって普天間基地は、「無条件返還(どこにも移設しない)」か「県外(本土)移設」かしかなく、どちらを支持するのか明確にすること。

 しかし、沖縄に寄り添うようなポーズを示す本土メディアは、この2点を明確にしません。なぜでしょうか。報道ステーションのキャスターのコメントがそれを示唆しています。
 「沖縄の犠牲の上に、(本土は)安全保障の恩恵を受けている

 こう思っている(善意の)日本人は少なくないでしょう。これは言い換えれば、「日本の安全保障は日米安保体制によって守られており、それは沖縄の犠牲の上に成り立ち、本土はその恩恵を受けている」ということです。明確な日米安保条約(体制)肯定論です。

 日米安保肯定論の自体の問題は別途考えるとして、ここで言いたいのは、日米安保体制を肯定したうえで、沖縄の過重な基地負担に「反対」するなら、結論は「県外移設」しかないということです。ところが本土メディアは頑として「県外移設賛成」とは言いません。本土の多くの「国民」(読者=顧客)が反対だからです。本土メディアは、読者を失いたくないために、論理的必然の「県外移設」に背を向け、結果、抽象的な美辞麗句を並べた欺瞞・偽善に終始しているのです。
 それが、沖縄にとって、また日本にとって、どんなに犯罪的なことか、メディアは自覚すべきです。

 なお、私は日米安保体制反対・安保条約廃棄の立場から、「県外移設」ではなく「無条件撤去」を主張します。

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