アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

名護市長選と自衛隊ヘリ墜落と私たち

2018年02月06日 | 沖縄・米軍・自衛隊

     

 名護市長選で辺野古新基地反対の稲嶺進現市長が敗れた翌日の5日、佐賀県神埼市の民家に自衛隊のAH64D戦闘ヘリが墜落しました(写真左)。
 相次いで起きた2つの出来事は、けっして無関係ではなく、偶然とは思えません。

 名護市長選についての「本土」メディアの論評は、「普天間返還が進まない原因は、沖縄の民意に寄り添おうとしない政権の側にあるのではないか」(6日付東京新聞社説)、「基地移転という国策をめぐって民意が引き裂かれる。その重荷を取り除く責任は政権にある」(6日付朝日新聞社説)など、「沖縄」対「政府」の図式を描くものが中心です。

 こうした論調には決定的な欠陥があります。肝心の私たち「本土の日本人」とのかかわり、その責任がまったく捨象されていることです。

 佐賀で自衛隊ヘリが墜落した現場は、幼稚園から170㍍、小学校から350㍍の所でした。そこですぐに想起されるのは、昨年末沖縄・普天間基地周辺の保育園屋根(12月7日)と小学校運動場(12月13日)に相次いで米軍機の付属物・窓枠が落下した事故(写真右)です。そして高江の民有地に米軍ヘリが墜落・炎上した事故(10月11日、写真中)です。

 佐賀の墜落事故の直後、小野寺防衛相は「着陸炎上が確認された」と発表し、「墜落」という言葉を避けようとしました。これも高江の墜落事故の時の米軍の対応と同じです。

 軍隊は住民を守るどころか犠牲にする。軍事基地は住民にとって生活と生命を脅かすものでしかない。それは米軍基地も自衛隊基地もまったく同じ。佐賀のヘリ墜落はそのことを改めて示したのではないでしょうか。

 だからこそ私たちは、佐賀の墜落事故から、基地によって生活・生命を脅かされているこうした状態が、沖縄では全県的に日常茶飯事であること、そこに辺野古移設問題の原点があることに思いをはせる必要があるのではないでしょうか。

 沖縄と佐賀にはオスプレイの配備(佐賀は自衛隊所有の配備計画)という共通点もあります。

 それだけではありません。

 民家に墜落するのは20年ぶりと言われていますが、自衛隊機の墜落自体は昨年だけでも4件発生しています(5月・北海道山間地、8月・岩国基地内、同・青森県沖、10月・浜松市沖)。墜落にいたらない事故はさらに多発しています。

 なぜ自衛隊機の事故がこれほど増えているのでしょうか。

 「事故が相次ぐ背景には北朝鮮情勢などにより実任務が増え続け、訓練が十分にできていないことを指摘する声もある。パイロット資格を持つ自衛隊幹部は『現場は恒常的に任務に追われ、訓練時間が全く確保できていない』とした上で、『パイロットの技量が落ち、事故につながっている』と分析する」(6日付琉球新報=共同配信)

 「北朝鮮情勢などにより」は正確には、「米日政府の朝鮮敵視政策による米軍と自衛隊の合同訓練・行動の質量の強化により」と言うべきでしょう。
 すなわち、辺野古新基地建設をはじめとする沖縄の基地問題も、「本土」における相次ぐ自衛隊事故も、その根源は同じ日米軍事同盟(日米安保条約)であり、朝鮮や中国の「脅威」なるものを口実にした軍事同盟の一層の強化です。

 安倍首相が「沖縄の基地負担」は「移設先となる本土の理解が得られない」(2日の衆院予選委員会)からだと本音を漏らしたことは、「それこそ差別」(6日付朝日新聞社説)に違いありません。
 しかし、メディアや「市民」に、安倍差別発言を批判する資格があるでしょうか。
 「本土」が嫌なものは当然沖縄も嫌です。その逆も同じです。では基地はどうすべきか。沖縄はもちろん「本土」からも一掃するしかありません。基地の元凶である日米軍事同盟=安保条約を廃棄して非同盟・中立の日本にするしかありません。

 安倍発言を「差別だ」と批判しながら、基地の元凶の安保条約=日米軍事同盟を容認する。そんな偽善・欺瞞から脱却しなければなりません。

 

 


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