24日未明のNHKラジオのニュースで第1報を聞いたとき、思わず声を出してしまいました。
「認知症の妻の介護に疲れ、無理心中を図った國誠一容疑者(83)が、入院先の病院で食事をとろうとせず、死亡した」
妻の後を追った自殺だと、私は思います。
どんなに介護が大変であろうと、「無理心中」という名の「殺人」は許されるものではない、許してはいけない、という声が聞こえてきます。それは「正しい」でしょう。でも、それだけで片づけられることではありません。
詳しい実情、背景は分かりませんから、半ば想像、一般論ですが、妻は生前、おそらく、「死」を望んでいたのではないでしょうか。あるいは、それさえ口にできないほど、苦しんでいたのではないでしょうか。
國さんはけっして自分が介護から逃れたくて「無理心中」を図ったのではないでしょう。妻のことを思い、悩みに悩んだ末に行きついた結論だったと思います。國さん自身、体に数カ所切り傷があったといいます。でも死にきれなかった。
毎日毎日、辛そうな妻の顔を見ながら、声を聞きながら、介護を続けたときの思いはどんなだったでしょう。
悩みに悩んだ末、「無理心中」を決意した時の思いはどうだったでしょう。
実際に妻を手にかけた時はどんな思いだったでしょう。
死にきれずに、自分だけが生き残ったことが分かったときの思いはどうだったでしょう。
病院で食事を拒み続けた時の思いはどんなだったでしょう。
そんな國さんを、メディア(「世間」)は「容疑者」と呼び、その「死」さえ多くの人に知られないまま、「社会」は動いていきます。
私の母(89)は、まだ自分でトイレに行けるし、着替えも自分でできます。「認知症傾向」はあっても、ほかの認知症あるいは寝たきりのかたがたに比べれば、うんと楽です。
それでも、毎日、「早う死にたい」と言います。私は通り一遍の「なぐさめ」「元気づけ」をしますが、その言葉に力はありません。
「世間一般」から見れば母は恵まれている方でしょう。それでも「死にたい」と言う。すべての面で人としての「能力」が衰えていくことが自分で分かる。分かりながら生きていかねばならないことは、辛く、苦しいことでしょう。
この国には問題が山積しています。「子どもの貧困」、「基地・平和」、「憲法」・・・。
そんな中で、人が人生を終えるとき、どんな思いで終える社会なのか。生きている間いろんなことがあっても、一生を終えるときは、やすらかな思いで終えたい、終えさせてあげたい。
そんな社会にしなければいけない。そのことが、もっともっと重視されていいのではないでしょうか。
そうでなければ、辛く悲しい思いをしながら人生を終える人たちが、この国では、間違いなく増えていきます。