今朝(10日)のNHKニュースで、たいへん興味深いレポートがありました(写真は同テレビから)。
「大島暫定憲法」(正式には「大島大誓言」)を知っていますか?私は知りませんでした。
敗戦直後の1946年1月、GHQは伊豆大島(東京都)に対し突然、「日本国からの分離」を通達。島民たちは「大島共和国」の樹立に向け、自主的に「憲法」を作った、というのです。
詳しく知りたくてネットで調べたら、雑誌「望星」(東海大学、2000年10月号)に、フリーライター・岡村青さんの優れたレポートがありました。題して、「幻の平和憲法『大島大誓言』の背景を探る 五十三日間の『大島共和国』独立構想」。以下は、岡村さんのレポートからです。
1946年1月29日、GHQから突如「監督はするが統治するのは島民自身」と通達された大島の島民は、「不安と混迷」の中、就任したばかりの柳瀬善之助村長を先頭に、早くも2月には「自治体制の確立」に向かい作業を開始しました。まず着手したのが、「憲法」の制定です。
島民の代表者たちは、「いずれも沈痛の想を心中に秘め、拳で涙を押し拭いながら真剣に熟議を遂げた」結果、わずか2カ月足らずの「三月前半ごろ」、「大島暫定憲法」が作成されました。
それは「近く大島憲章を制定」するまでの暫定的なものですが、短いながらも、「第一章統治権」「第二章議会」「第三章執政」と、主権在民、三権分立が明記されています。
中でも圧巻は「前文」にあたる部分です。そこにはこうあります。「吾等ハ・・・同義ノ心ニ徹シ万邦和平ノ一端ヲ負荷シ茲(ここ)ニ島民相互厳ニ誓フ」。世界平和の一端を担おうという島民の決意が高らかに宣言されているのです。
しかし、大島の分離は東京都の要求で3月22日に撤回され、「大島共和国」は53日間の幻に終わりました。
岡村さんはレポートをこう締めくくっています。「(暫定憲法が)一部の学者や知識人たちによらない、大島島民自身の知恵と創意によって創り得たところに大いなる意義と示唆があろう」
私は「大島暫定憲法」から、2つのことを思いました。
1つは、岡村さんと同じく、日本民衆の草の根民主主義の素晴らしい歴史です。平和・民主の暫定憲法が、GHQや日本政府という国家権力から独立した、民衆の自治によって創られたことは、今の日本にとってきわめて大きな教訓です。
もう1つは、沖縄です。戦後日本から切り離された沖縄は、大島と違い、「復帰」までに27年かかりました。その「復帰」の実態も周知の通りです。そして今、沖縄では「独立」「自己決定」「自主権」さらに「沖縄権利章典」などの構想が広がっています。
沖縄が日本から「分離」するとすれば、どのような社会を目指すのか。「琉球共和社会」をつくるとすればどのような「憲法」を掲げるのか。
大島の島民が草の根から「暫定憲法」を作ったように、沖縄でも今、草の根の憲法論議が必要なのではないでしょうか。「日本国憲法」について、あるいは「沖縄の憲法」について。
それは、切り離されて「不安と混迷」の中にあった大島島民とは違い、自らの意思で本土の国家権力から「自立」し、新しい社会を目指す「希望と確信」の沖縄として。
(5月5日の朝日新聞によれば、「大島暫定憲法」の原本と制定過程のメモが所在不明になっているとか。見つかればいいのですが・・・。)
<私の介護メモ>
試行錯誤のセカンドオピニオン
セカンドオピニオンは患者(家族)の当然の権利とは思いながら、かかりつけの医師にその旨を告げ、紹介状を書いてもらうのは、やはりある種の勇気がいります。
その壁を乗り越えて、8日、新しい病院へ母を連れていきました。
結果、これまで知り得なかったことが分かりました(たんなるレビー小体型認知症とは断定しにくい)。約1時間かけて念入りに診察してくださった医師に感謝です。処方してもらった薬も、いまのところ母に合っているようです。
しかし、母は新しい病院へ行くことを喜んではいません。
病院を連れまわすより、静かな毎日を過ごさせてやることの方が本人のためかもしれない、との思いは消えません。
薬と医者(病院)にどうつきあうか。模索と試行錯誤は続きます。