つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

お客様よりのお便り

2019年09月30日 | お客様よりのお便り
決算作業、ホームページの作成、そして当店には余り関係がないと思っていた消費税についての作業と、、
なかなか仕事が終わらず、昨日、今日と佐橋にも助けてもらいながら店に出て仕事をしています。


つれづれの更新も余り進みませんが、皆さまには温かくお見守り頂き、大変ありがたく
日々の励みになっております。

日、月曜日と続けてお休みをいただくようになり、各美術館さんの展覧会に伺ったり、
今回のように溜まってしまった仕事を片付けたりしながら、有意義に時間を過ごさせていただけるように
なりました。

火曜日、さぁ、1週間が始まるぞ!

そう思って、ポストやメールボックスを開けると時々お客さまからのお便りが入っていて、とても元気をいただきます。

もう2週間も前になってしまいましたが、




一回に、いっぺんに、これだけの絵葉書をポストに見つけた時には驚き、嬉しくなりました。

しかも、全てお一人のお客様からのお便りです。

美術館に伺うたびに、私は出口のショップで絵葉書を買ってしまいますので、
そうですねぇ、未使用の絵葉書を多分、300枚以上は常に持っていますが、
どうもこのお客様の絵葉書コレクションは、その3〜5倍の量に及んでいらっしゃるようで
時々、見たことのないものや、これは誰の絵?と思う絵葉書を送っていただき、楽しませていただいています。

お便りというのは、文章の量に制限があり、またお相手にお届けするまでに、時間がかかったりしますが、
やはりメールやラインとは違った余韻を残してくれるものですね。



私は絵葉書とともに、切手も集めています。
といっても最近は趣のある切手が販売されなくなってしまいましたので、余り買わせていただくこともなくなってしまったのですが、



今回は


こちらの切手を求めました。

久しぶりの絵画切手。張り切ってよく見てみましたが、さて、結局どの画家の作品か?なかなか当てられませんでした


1番上の結城素明にびっくり、1番下の木下孝則は良い作品だなぁと思えました。


いよいよ10月を迎えます。
月末には恒例の無眼界展も開かせて頂きますので、少しずつ準備をして参りたいと思います。









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2019/09/23

2019年09月23日 | おススメの展覧会、美術館訪問
もう1週間前のことになってしまいました。

守一展を拝見した後は、2人で東京の国立劇場に向かいました。

前日に席を予約した文楽を鑑賞するためです。

佐橋はどんなに良い舞台(お能や歌舞伎は勿論、各お芝居、クラッシックコンサートなど)を見ていても100パーセント鼾をかいて寝続けるという特技を持ち、私は隣でハラハラ、時々思いっきり佐橋の足を蹴る!という荒業を出して、なんとも居心地悪く何時間かを過ごすことが多いのですが、そんな佐橋でもどういうわけか、この文楽に限っては、ほとんど寝ずに一所懸命見てくれて、私は安心して鑑賞に集中できるので、時々こうして文楽にでかけるのです。






今回は夜の部嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)と艶容女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)を拝見しました。

といっても、やはり文楽鑑賞は入門編、まず筋をあらかじめ理解しておこうとプログラムを求めました。
勿論この中に簡単なあらすじや見どころ、大夫、三味線、人形の技芸員の方たちの紹介もきちんとあるのですが、

文楽のプログラムにはついているのですね。






浄瑠璃の床本集です。

この内容は舞台両横の電子掲示板にもテロップとなって流れますので、鑑賞しやすくはなっているのですが、文楽は休憩も短く、ひたすら椅子に座っての鑑賞時間が長いので、やや首が疲れました。

急遽鑑賞を決めたので、お席も舞台全体を見渡すには少し辛いこともありました。

けれど、人形は本当に愛くるしく、見事な動きで、「人間」を表現してくれるのです。
時が止まったかのような、オール手創りの世界。本当に気持ちの良い、優しい世界です。


文楽劇場は名古屋にはないので、東京か大阪に伺わなければなりませんが、「また見に行きたい!今度はオペラグラスを忘れないように」と珍しく2人仲良く劇場を後にしました。

勿論、休憩の間に、劇場内の数々の絵画を拝見しました。




土牛、森田曠平、人形が本当に可愛らしく、美しく、魂を込めて描かれています。



東京に一泊し、翌日は



三井記念美術館さんで、高麗茶碗をたっぷりと拝見。







高麗茶碗は、高麗時代に作られたということでなく、朝鮮時代の16世紀以降に作られた茶碗を指します。

そして、当時朝鮮で日常に使われた器のなかから日本人が茶の湯のために見立てた茶碗と
逆に朝鮮の職人たちが、日本向けに焼いた茶碗の二つに大別されます。

見立てられた茶碗だけでもその種類は実に多く、種類を覚えるだけでも大変なので私はいつものようになんとなく、綺麗だなと思う茶碗を追いかけましたが、気づいてみるとやはり上の画像の「見立てられた茶碗」にとても魅力を感じ、




日本向けに焼かれたこうした茶碗は実にみごとでありながら、なにか・・かえって芯に少し固さを感じました。
結局同じ茶碗なのに、見方を変えると気になる事があるのですね。

こちらの展覧会は12月1日まで続きます。
数々の名器のなかでも、三井記念美術館さんご所蔵の作品は特に品格が高く感じられ見応えがあります。
よろしければどうぞお出かけくださいますように。



この日は私がクタクタに疲れてしまっていて、日本橋を足早に過ぎ、東京駅へ。

岸田劉生展を拝見して名古屋に戻る事に致しました。

劉生展はこのブログでも何回か触れさせていただいているほど、今まで色々と伺っています。

やはり、画面に向かう集中力、熱情、粘着性。。だんだん言葉がわるくなってしまうかな?

劉生のエネルギーは観るものを圧倒致します。

けれど、最初に守一を見て、文楽を観て、お茶碗をみたせいでしょうか?

今回は案外劉生は頭で絵を描いているのだろうと思えました。

何を探していたのだろう。。と思うほどの技法の変化。日本画への傾倒。

下手と言ってはそれまででつまらなくなりますが、頭でどんなに絵のタイプをかえてみても、
どこにでも溢れる劉生という人間。

劉生が求める愛。生きる不安。孤独。
道を求めれば、求めるほど、人との交りを広げれば広げるほど、
劉生自身の意識の底に、とてつもなく大きな力が蓄積されていったように感じます。
私達はあの劉生の絵の中に必ずそれを感じているのですね。



劉生の絵の中では、私はやはり短い人生の後半に描かれた静物。特に冬瓜を描いた作品が大好き
です。




包丁を突き刺さなければ、冬瓜は腐る事なく長くその形を保ちます。

また、白い粉をふいた厚い厚い皮に、包丁をひと度刺せば、中身は案外淡白で子供のように単純な瓜であります。



劉生の求め続けたリアル。
彼の画家としての人生と作品そのものが、近代日本美術が背負ったあの「個」の象徴のように考えるのです。

劉生の手触りは、守一の手触りと違い、人懐っこく、「何故か気になってしまう、ひっかかる」てざわりです。


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熊谷守一展

2019年09月20日 | おススメの展覧会、美術館訪問
ご報告が遅くなってしまいました。
日曜日に静岡県立美術館さんに伺い、熊谷守一展を拝見しました。







名古屋からは新幹線で静岡駅へ、そこからJR東海道線に乗り換え、更にバスかタクシーを利用しますので、伺うのに少し時間がかかってしまいますが、美術館さんの周りには緑が広がり、さぁ「絵を見ましょう!」という気持ちを高めてくれる素敵な環境が魅力的です。

タクシーの運転手さんは、桜の春と欅の紅葉の頃が1番おススメだと教えてくださいました。






エントランスにいくつか美術館所蔵の作品が並んでいました。

この中村岳陵の作品は季節感も動きもあり、面白いと思えました。岳陵は院展から日展に席を移動したと資料が添えられていましたが、「えっ本当?」。。知らないことがまだまだ沢山ある事に気づかされます。


守一についてはまず茄子です。





「うん、うん、茄子の美しさはここですね」と勝手に頷きながらの鑑賞です。
葉、お花、なすびそれぞれの形と余白(背景)とのバランス、洒脱な色遣い、守一様式にかかれば茄子のいのちの本質=美が一瞬に目に届きます。




私は守一の水色が好きなので、この紫陽花を描いた作品を守一様式の今回の1番に選びました。


またいつもお伝えするように、守一自身の内部の「どろどろ」が少し感じられるような気がして裸婦も好きです。





私達は展覧会場では決して並んで歩きません。
大体は私が早く出口に到着しますので、ショップなどで佐橋が来るのを待っていますが、
今回は出口の手前で少し佐橋を待ち、展覧会全体での「今日の1番」を確認してみようと思っていました。

すると、佐橋が「来て来て」と手招きをし、入り口に近いほうに私を連れて行きます。

「これ!今日はこれが一番よかったと思うけど、どう?」と言い出すので
私は笑ってしまい、「私もこれだと思っていたよ」と伝えました。





戦前の作品、守一が守一様式を模索している間の作品です。
金魚が水の中にいます。
この絵を見ている私の気持ちは、おうちで金魚鉢の中の金魚を一人でのぞいている、その気持ちと同じです。


守一という画家の絵のうまさは、若い頃の作品や、肖像画を見るとすぐにわかります。
この後ご紹介いたしますが、翌日伺った東京ステーションギャラリーの劉生展での劉生の肖像画は、どんな人を描いても「みな劉生の肖像画」ですが、守一は肖像画のモデル、その人自身を深く感じていることがわかります。

本来の自分の生命力=地の強さと、感じる力の鋭さ、守一はきっと若い頃には、この相反する自身の力に相当の迷いを感じていたのではないかと思います。そして、貧しさやなんといっても我が子を失うという苦労、経験を経て、とうとうあの守一様式に到達したのだろうと思っています。

佐橋と私は、どうしてもその守一の〝迷い〟を見てみたいと思ってしまうのです。
ですから、守一様式の成立する前の1940年代の作品群に魅力を感じてしまいます。









多分、この頃の作品でしたら、当店でほかの画家の作品と並べても親和性を発揮してくれるでしょう。



「守一様式」の作品は、例えば当店なら、応接室の床の間に一点だけを飾れば、もうこの部屋全体に何も飾らなくてもよくなってしまうだろうと思います。

守一様式の作品の魅力はその芸術性の高さ、作品の強さにあり、その分作品自体の「孤独」がとても深いのですね。簡単にいえば、他を寄せ付けません。孤高の画家守一はいつもひとり。作品もいつもひとりです。

作品を見る私は、守一の筆によってその対象の奥深くに潜む「美」「真理」を覗くことができ、
守一の対象への感動を味わうことができますが、さてそこに生温かい情動が伴うか?というと
守一はなぜがそれを全て断ち切ってしまうような印象を受けるのです。自己の消滅、「無」に近づくために、守一は情動を断ち切ったとも言えるかもしれません。

「わたしは裸婦に顔がないんで。。顔を描かないのは情が移るからで、そりゃ美しい人は美しいと思う。」守一



さて、この情動の問題は梅原龍三郎や安井曾太郎、香月泰男や山口薫、日本画でしたら、横山大観や速水御舟、小林古径や竹内栖鳳。。多くの画家の作品の魅力にもつながって行くことだろうと思います。



今回のこの展覧会は、ご自身のご所蔵作品を出品されていらっしゃるお客様よりご紹介を頂き、ご招待をいただきました。守一の展覧会に伺う度に、自分の眼の成長を確認させていただける気が致します。歳を重ねる度に、小さな額の中に、どんどん深く、広い世界が見えてくるのです。

出かけるのが遅くなってしまい、恐縮に存じますが、この機会をいただきましたお客様に心より
お礼を申し上げます。





同美術館さんの「ロダン館」も素敵です。

23日までとなりますが、もし、お近くにお住いでいらっしゃいましたら、ぜひこの連休中に守一展にお出かけくださいませ。(この後、岡山、久留米でも展覧会がございます)






















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秋に 二つ目

2019年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム
生まれてこのかた沢山の茄子を食して参りました。名古屋の父母も畑を持って毎年沢山の茄子を育てていましたので、夏は茄子ばかりいただいていました。

でも、maho さんのお父様の作られた茄子は絶品、特別な美味しさです。家庭菜園を始められてから間もないはずなのに、何故かお味が違うのです。




今回は皮を少しむかせていただいて蒸し、生姜醤油であっさりと頂きました。

甘い‼︎

佐橋と二人で一皿、あっという間に片付けました。


生まれてこのかた沢山の茄子の絵を見てきました。御舟、青樹、土牛にもあったように思います。8月のカレンダーには




蓬春の茄子です。

けれど、やはり


茄子の自然の美しい色はなかなか出せないのですね。

しかも中身の甘さまで描ける画家は稀有です。

昨日見た守一の茄子はその域に最も近く描かれていたように思えます。(カタログから後日ここに画像を掲載させていただきますね)






ま、茄子の味まで表現するという事は、茄子は食べ物と決めつけてしまい、茄子本来の美から遠ざかってしまうことになるのでしょうけれど。


絵を沢山見るという事は、何を見ても美しいと感じる眼を養うということではないでしょうか?

茄子の本当の美しさ。
それを最も深く感じた画家が、最も美しい茄子を描き、茄子の本当の美しさを知るものだけがその美しさを感得できるのです。


今日の茄子はどんな茄子で、奥さまはどんな風に調理されたのでしょうか?茄子は少し冷蔵庫に長く居た?料理のお味は少し塩辛い?奥さまは疲れていらっしゃる?


普段お仕事以外はシャットダウンさせてしまわれるお心を少しだけ開いていただけると、案外美しい物は身近に溢れ、その美しさを見つける事によって幸せが近づき、より美術品鑑賞の目が深まる。

そういうこともあるのではないかなと思っています。







この美味しい茄子を今回はお父さまとお母さまがお二人でお届けくださいました。



自分の子宮筋腫の手術の際、麻酔が効きすぎて大変苦労をしてしまったので、私は今回Mahoさんの入院しての抜歯がとても心配になってしまいました。それでも、ただ無事を祈っているしかなく、、「なんともオロオロ情けない姑だなぁ」と自分で恥ずかしくなっていたところでした。


Mahoさんのお母さまのYumikoさんとはちょくちょくメール交換をさせて頂きますが、お会いするのは息子達の結婚式以来です。

今回お会いして直ぐにYumikoさんは

「夏美さん、Mahoの抜歯が無事に終わりました。ずっと無事を祈ってくださってありがとうございました」とおっしゃってくださいました。

私はとても深く癒された思いがしました。
私からの「無事を祈っています」というメールに応えてのお言葉だと実感できたからです。

そしてこのご夫妻の温かさはあのMahoさんの優しいお心に、そしてきっとこの茄子のお味の秘密にもつながっているのだろうと思えました。


私はやはり家族が一番大切です。そして、その家族と繋がる心を教えてくれるのも
真の美術品だけが宿す真理、美の力だと信じています。

















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秋に

2019年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
先週は二つ良い事がありました。

一つは、佐橋の母がお正月に腰の圧迫骨折をして以来、毎月お世話になった整形外科さんへの通院を卒業させていただいたことです。

2017年のお正月に父が亡くなり一人になってしまってから、母は足腰の力を失って、よく転んでしまうようになりました。自宅に一人でいて貰うのも不安になり、今も施設にお世話になっていますが、このお正月に自宅に帰宅した際に「いつのまにか骨折」をしてしまったのです。

一時は寝たきりになってしまうのではないかと心配しましたが、リハビリや施設内のお仲間の支えもあり見事復活を果たしました。腰は曲がり、歩行器が無いと歩くこともままなりませんが、それでも母は「自分でしっかり立てている!」息子として嫁として今はそう感じ安心しています。


配偶者を喪うと、残された妻や夫のストレスは最も高まると言われているそうです。

以前講演会に伺った京都大学のカール ベッカーさんのお話はとても印象的でした。

以下インタビュー記事の抜粋です。(関西弁を使われます)




ベッカー:西洋東洋を問わず―東西を問わず、大事な人に死なれてしまうと、一、二年も経たないうちに、いろんな不幸が襲ってきます。例えば事故だの、病気だの、精神異常だの、最悪の場合は鬱や自殺まで起こりやすいんです。
 
品田:  残された方に?
 
ベッカー:  そうです。遺族に、残された方に、これが起こりやすいんです。で、今我々がそれを例えば免疫力の低下とか、精神統一不足で交通事故の原因となったとかという理解もできるんですが、昔の日本人がそれを「祟(たたり)」と言っていたんです。あの世から鬼がやって来て、十分なお供えとか、十分な儀法をやっていない人たちに対して、何か悪いことを起こしてしまう。祟りなどを信じていなくても、実は欧米においても最近日本人の慣習が真似をさせています。どういうふうにか、と言うと、ある病院で本人患者自身が長くないとわかった時点で、毎月のようにパーティーを行います。そのパーティーに、どうせ死ぬんだから何を飲もうが食べようが自由で、持ち寄せの物を飲んだり食べたりして、一緒に泣いたり笑ったり黙り込んだり握手したりして、そして本人がいなくなってからも、同じ仲間や家族を呼び寄せて、毎月数回ほどその儀式を続けます。その慣習がどこからきているかというと、日本の宗派によって呼び名などが違ったりするんですが、例えば初七日、四十九日、初盆、一周忌など定期的に親戚や友人などを集めて、一緒に話し合ったり、笑ったり、泣いたり、亡き故人のことを思い出したりすることによって、心の整理、精神統一ができて、それによって昔でいう「祟(たたり)」―今でいう「免疫低下」や、あるいは「鬱」などを避けられて、日本が上手くできていたんですね。だからその儀式は単なる儀式ではなくて、非常に機能的な意味があったわけでして、お墓やお仏壇などを通じて、ご先祖さまの知恵を借りることが、日本人の知恵の一つであって、また繰り返し集まって、亡くなった人のことを話して納得するまで冥福を祈ることも、それなりの日本の知恵だったのと違いますか。



父を喪った当初の母はひとりでに涙を零したり、今まで見たこともない姿を見せていましたが、2年半を過ごして、今は随分精神的な安定を得てきたと思えます。



先日の通院卒業の日は、敬老の日も近いので、佐橋と3人で母の好物のひつまぶしを食べに行きました。

「うまい!うまい!」(美味しいの母の最上級です)と母はとうとう一人前、お茶碗3杯分のひつまぶしを完食!89歳の食欲にびっくりいたしました。

母は後からこう言ったのです。

「こんなに美味しい物を食べてわし死なんだろうか?死んだらお父さんに会えるかしらん?優しい人だったから、違う彼女が出来ておらんだろうか?」


「お母さん、あんなに喧嘩していたのに、お父さんに会いたいの?それならきっと会えるよ。会って彼女がいたらどうするの?」

「そりゃ、ぶっ倒したるわさ」

「お父さんを?」

「相手の女だわ」


大笑い。

「またひつまぶし食べに来ようね!」

自宅に帰りたい気持ちをグッと抑えながら、今施設で生活をしてくれている母に感謝をする気持ちが生まれ、母と私達に良い距離感が保てる様になってきたようにも思えます。

愛別離苦。

人は悲しいものですが、生き続けるという事だけに、何か価値があるように思えます。

可哀想になったり、我儘に腹を立てたりしながら、母の「ひとり」にこれからも寄り添いたいと思っています。

もう一つのお話はまた後日書かせて頂きます。







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