つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

竹内栖鳳資料

2020年02月29日 | 竹内栖鳳

竹内栖鳳資料(たけうちせいほう)

略歴

1864年(元治 元年)   京都市の川魚料理店「亀政」の長男として生まれる。本名恒吉。

1877年(明治10年)    四条派の土田英林に絵を学ぶ。

1881年(明治14年) 幸野楳嶺の私塾へ正式入門。四条派を学ぶ。棲鳳の号を受ける。

1884年(明治17年) 京都府画学校の北宋画科に入学。フェノロサと会う。

1886年(明治19年) 京都青年絵画研究会結成。

1887年(明治20年) 京都府画学校修了。絵師として独立、結婚。

1891年(明治24年) 京都青年作家懇親倶楽部を結成。

1894年(明治27年) 如雲会委員となる。

1895年(明治28年) 京都市立美術工芸学校教諭となる。

1900年(明治33年) 渡欧。パリ万国博覧会で「犬 雪中操雀」が銅牌を受賞。

1901年(明治34年) 帰国。号を栖鳳と改める。

1907年(明治40年) 第1回文展の審査員を務める。

1909年(明治42年) 京都市立絵画専門学校開校し、専任教諭となる。

1913年(大正 2年) 帝室技芸員になる。

1917年(大正 6年) 京都市立絵画専門学校の教授となる。

1918年(大正 7年)    国画創作協会顧問になる。

1919年(大正 8年) 帝国美術院会員になる。

1920年(大正 9年)    翌年とあわせ2回にわたる中国旅行をする。

1925年(大正14年) 勲五等瑞宝章を受章。

1936年(昭和11年) 京都市美術教育顧問になる。

1937年(昭和12年) 横山大観とともに第1回文化勲章受章者となる。

1939年(昭和14年) 大礼記念京都美術館顧問になる。

1942年(昭和17年) 湯河原の別荘で逝去。78歳。

 

画風・特色

早くから各種展覧会や共進会で受賞を重ね、フェノロサに啓発されて京都青年絵画研究会を結成するなど、京都画壇における若手の花形的存在であった。もともとは円山・四条派を基礎とする古画風であったが1900年の渡欧後、ターナーやコローなどの影響から西洋の写実表現を巧みに取り入れ独自の画風を確立し多くの傑作を発表、画壇の代表的存在となった。1920、21年の中国旅行以来、軽妙洒脱な筆致による新たな画境も開拓する。又土田麦僊、上村松園など多くの画家を育成し近代日本画の発展に大きな業績を残した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

碧南市藤井達吉現代美術館さんの休館

2020年02月26日 | おススメの展覧会、美術館訪問
月曜日の夕方、愛知県内の碧南市藤井達吉現代美術館さんにお邪魔致しました。

増築改修工事の為、2月25日より2年間休館されることになり、この日クロージングレセプションを催されたからです。

こちらの美術館さんは、今までに興味深い良い展覧会を多く企画してくださいましたし、私達もよく通わせていただいた思い出もあります。

このウィルス騒ぎで催しに参加される方も少ないのではないか?と簡単に考え、参加させていただいたのですが、「行ってビックリ!!」




館長さんでいらっしゃる木本文平先生のお話「当館のこれまでの活動と展望」が始まっても、次から次へお客様が入ってこられ大盛況でした。



木本先生もまず第一声は「こんな時に、こんなに集まっていただいて。。。大丈夫でしょうか・・」でした。碧南市の歴史や出身人物、また今まで開かれた展覧会のエピソードなどをお話しくださいましたが、やはりこの木本先生の芸術に対する情熱が、この碧南市の美術館さんをまた優秀な学芸員さんをお育てになられたのだと思えました。

また同じ美術品に関わる仕事であっても、学芸員の先生方の経験されるご苦労と私達画商の苦労はまったく性質の違う物なのだということを改めて感じました。

新しい美術館は、バッグヤードの増設を計り、また地域との連携をより深める施設作りを目指されるそうです。

あまりの混雑に館長のお話を聞き終わり、展覧会を拝見した後に、私たちはさっさと失礼してしまいましたが、なんと!素敵なお土産を頂戴してしまいました。












お別れの記念の「足袋」です。

藤井達吉の言葉より 

かそかにも 鳥の声のきこえ来ぬ 白雲よ 燃えて行け 花の盛りぞ

2年後は丁度私が還暦を迎える年になります。
この赤い足袋を履いて、元気にまたこちらの美術館さんに伺うのを楽しみに頑張りたいと思います。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋散歩  名古屋城からボンボンさんまで

2020年02月20日 | 名古屋散歩

先日当店にお通いくださるお客さまからこんなメールを頂戴いたしました。



もうすぐ春?

キャッスルホテルの前
お堀端の柳が もうすぐ
芽吹きそうで 何となく
黄緑色をしていました
夕方ボンボンに
お茶をしに行きましたが
多くの人で断念
貴店のショーウィンドウの 契月の立ち雛の お軸が
春近しで良かったです
落ち着いていますね


〜〜
ホテル名古屋キャッスルは名古屋城を眺めながら宿泊、お食事ができるホテルです。
このお客さまはこちらのジムにお通いなのですね。

名古屋城は私たちの自宅にも近く、この柳のお話を伺って「そういえばそろそろ梅園の梅が咲いていないかな?」と久しぶりに2人で名古屋城に行ってみることに致しました。

ウィルス騒ぎでなかなか遠出ができませんので、この際、近場に出かけて、皆様に名古屋のご紹介をしてみようと思い立ったのです。




お堀の柳はこんな感じでした。確かに黄緑色に見えましたが
その色を上手に画像におさめられませんでした💦







現在名古屋城自体にお入り頂くことはできません。
近く当時の設計図のまま木造で再建される予定ですが、天守閣まで登るエレベーターを付けるかどうかで意見がわかれ、工事が先に進まないままなのですね。


そのかわりと言っては失礼ですが、同じ敷地内にやはり当時の新しく再建された本丸御殿があり、
こちらには入場が可能です。豪華な書院造のお部屋をお楽しみいただくことができます。








小さな民芸館では、名古屋に古くから伝わる土人形の玩具をご覧いただくこともできます。

今では残念ながら、この土人形を作ってくださる方がいらっしゃらなくなったそうです。






この猿夫婦はどこか私たちに似ているような???




肝心な梅は日当たりが十分でないためかまだ満開ではありませんでした。













この御殿椿は空襲で焼けてしまい、今では上の画像のように根株しか残っていないようですが、




挿木をされた木が残されて、3月から4月に白い大輪を咲かせるそうなので、また近く伺ってみようと思いました。


名古屋城では各季節のお花が楽しめるようになっています。
入り口で500円をお支払いいただくと、本丸御殿などの施設もご覧いただけます。
名古屋にいらっしゃる機会がございましたら、ぜひお立ち寄りください。




さて、先ほどのいただいたメールのなかのありました「ボンボン」ですが
私どもの店のあります名古屋市東区では有名な喫茶店、ケーキ屋さんです。
昭和24年の創業。当時のケーキ、お菓子の形、味わいをそのままにお値打ちにお菓子をお楽しみいただけます。

当店より徒歩5分の近さなので、よく、若いお嬢さん達がうちの店に入ってこられて「ボンボンさんはどちらですか?」と聞いてくださいます。

「どちらから名古屋へお越しですか」と私がお尋ねすると、「大阪です」「横浜です」とお答えが返ってきてビックリ!その度に食べログ、ネットの力を思い知らされます。

どんなに頑張ってみても、ボンボンさんより有名になるのは難しいので、名古屋の方達には「ボンボンさんのお近くの佐橋美術店でございます」と自己紹介をさせていただくことにしています。 


名古屋のご紹介、いかがでしたでしょうか?

また少しずつご紹介もさせていただきますので、当店の作品と合わせてお楽しみいただければ幸いです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

画家の言葉

2020年02月20日 | 画家の言葉

ホームページの「今月の画家の言葉」を草間彌生から長谷川麟二郎に替えさせていただきました。

先日まで掲載させていただいた草間彌生の言葉は大変わかりにくく、読み手によってどのようにも解釈できる一つの「詩」のようであったと思います。

 

~~

トルストイの童話に「イワンの馬鹿」という話がありますが、

悪魔が根負けするまでは私の仕事もつづくのです。

何故なら悪魔は芸術の敵であり、それ以上に親友だから・・。

つまり悪魔は自由の中にのみ住むのです。

全て決定されたものからは、彼はたちまち離れます。

・・・内面の悪魔は新しい真実と、その形式を作るためには宿るのですが、既に出来上がった形式や概念の中に、芸術そのコピィの中には一瞬たりとも安住してくれません。

草間彌生 芸術新調 1955年 26歳

~~~

 

この頃より1970年代の草間彌生の仕事は大変生き生きとしていました。

そしてその個性的な仕事は当時、現在の「日本中どこへいっても草間アート」を想像させる要因を微塵も持たなかったように思います。

草間作品が本当の「個性」を失い、それこそコピィ化した時代から、皮肉にも草間作品は圧倒的な勢いで日本中、またアジア、世界に拡散していきました。

 

草間にとっての、「芸術の敵であり、親友である悪魔」とは、やはり「孤独」ではないかと私は想像しています。26歳の草間はとっくに孤独の苦しさとその意味を知っていた。

 

自由の中に生きようとするとき、人は深い深い孤独を味わうことになります。

例えば作品に何か方向性を決めてしまえば、画家は一挙にその孤独からは解放されますが、その途端、作品は形だけの抜け殻となり、そこには何もなくなってしまうのです。それでも、草間は孤独に耐え、幻聴や幻覚を作品にし行動し続けたのだと思います。


拡散に終止符が打たれる頃になれば、きっと冷静な草間作品への評価がくだり、草間の「手」や「声」が直接聞こえ、感じられる作品に価値が見出されるのではないかと期待をもって想像しています。

お通いくださるお客さまによくお話するように、今の当店がありますのは、以前に草間弥生の作品を多く扱わせていただくことができたからだです。


小さな本にふと見つけた草間の言葉を、ホームページに引用させていただき、私達の草間作品への思いを少しお伝えしたいと思いました。







 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーティゾン美術館

2020年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
久しぶりにテレビで「ぶらぶら美術・博物館」を見ることができました。

ちょうど旧ブリヂストン美術館さん、新アーティゾン美術館さんの紹介をされていました。

伺いたいと思いながら、まだ伺えていない展覧会なので大変興味深く拝見しました。




御所蔵2800点のうち、今回の開館記念展では選りすぐりの206点の作品を展示。
また閉館中に新しく所蔵された31点も展示されていらっしゃるそうです。

もともとの御所蔵の中で今回久しぶりに展示されるのがこの青木繁の水彩画。




小さな作品のようですが、直接絵肌を見てみたいと思いました。




新しい所蔵作品の中では






ジャコメッティが日本人哲学者を長い時間をかけて描いたといわれる作品。











そして、なんといっても松本竣介の1943年昭和18年 汐留風景を是非拝見したいと思いました。

入場チケットの入手は全てHPからの日時指定予約制だともお聞きしました。


今回の開館記念の展覧会は3月31日までですので、よく調べて私達も是非伺いたいと思っています。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする