つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

ビュールレコレクション展

2018年07月31日 | おススメの展覧会、美術館訪問




このところ自分でも凄いなぁ〜と感心しているのが、各展覧会の会期はじめに美術館さんに伺い、皆さまに展覧会のご紹介ができている事です。

いつもは最終日に出かけることが多いのに。。です。


さて、相当の混雑を予想して、お安い駐車場を探して向かった名古屋市美術館さんでしたが、日曜日の夕方、思っていたような混雑はなく、「ビュールレ・コレクション展」をゆっっくり鑑賞させていただけました。


スイスのビュールレ美術館は、ドイツ生まれの実業家エミール・ビュールレが1937年より約20年の間に収集した作品を展示する美術館でしたが、世界的に話題になった盗難事件などの影響もあってでしょう、作品所蔵、保存の困難から2015年に閉館し、この印象派を中心とする一大コレクションは、2020年よりチューリヒ美術館に移管されることになりました。


1人のコレクターによって成し遂げられたプライベートコレクションとしては、質、量ともに世界トップクラスであり、特に、印象派とポスト印象派作品の充実ぶりには目を見張るものがあります。

 

 

 







展示最後の、日本初公開モネの壮大な「睡蓮の池」はわかっていながら「本物かしら?」と思えてしまうほど、

今まで拝見した睡蓮の池のなかでも1番見事な作品でした。

どんなに資産がお有りでも、今の時代にこれだけの作品を集めることは不可能だと思えますので、この時代にはまだこうした作品を求める事ができたのだと驚きました。

 

 







ルノアールの少女は超一級、セザンヌの人物も、モネもマネも、ゴッホも、ゴーギャンも、ドガも
本当に素晴らし作品ばかりで 「至上の印象派展」に何の反論もできないのですが

やはり夏休みの企画ということがあるからでしょうか?

このパンフレットの

優良選抜(ドリームチーム)

最強の美少女(センター)というコピーや、

美術館さんの設営、作品のそれぞれの後ろに赤や青の壁紙を貼り、作品を際立たせて見せる工夫が、

少しこのビュールレさんというコレクターさんのお心とは遠いところにあったのではないかしら?と感じてしまいました。


そして、海外旅行など全く行ったことのない私ですが、ぜひビュールレさんの邸宅を改造されて作られたという美術館さんにこの作品達が実際に展示されているところを拝見に伺ってみたかったと思いました。

 







私の持っているルノアールの絵葉書たちです。


世界各国の美術館さん所蔵の作品ですが、このなかにあって、ルノアール渾身の作品であるはずの、まして8歳の「イレーヌ嬢」がとても寂しいお顔をされているのに気づきます。

この展覧会場の作品をよく拝見して歩いていると、どの作品も超一級の作品でありながら、全て少し寂しい印象を与えていると感じたのは私だけでしょうか?



絵を見るのは、何のためか?

まして、それをどうして一生の仕事にしたのだろう?とよく考えます。

川端康成や小林秀雄のような一級の芸術家、思想家が美術品の虜になったのはなぜだろうと考えます。

 



まだその答えを私自身は探せていませんが、

物言わぬ絵画を見るとき、私はそれを描いた画家の心を覗きたいと願っていますし、美術品に魅せられたコレクターの方々がそのコレクションに表現する美意識、孤独感、愛情に少しでも触れさせていただきたいと思っています。

そして、それをすることが、時には人間を狂気の世界に誘ってしまう美術品に触れる者の矜持となるように思っています。


そこに、ルノアールがいて、セザンヌがいて、、ビュールレさんがいらっしゃるということを感じることのできる自分。

結局自分の存在をきちんと感じることが大切なことのように思うのです。

 


名古屋は今日も酷暑の1日となりました。

皆さま、どうぞお元気に8月をお迎えくださいますようお祈りしています。




名古屋市美術館開館30周年記念

至上の印象派展 ビュールレ・コレクション  9月24日まで














 

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長谷川利行展 ー芸術に生き、雑踏に死すー 

2018年07月24日 | おススメの展覧会、美術館訪問



先日の日曜日、名古屋はとても暑くてどうしようか?と悩んだのですが、

やはり「見たい!」が勝って、午後3時過ぎから県内碧南市の長谷川利行展に車で向かいました。



画家長谷川利行が亡くなって(はせがわ としゆき 1891〜1940年 ※私達はいつも りこう と呼んでしまっています)

70年以上が過ぎていますが、

その大規模な回顧展は18年ぶりとなるそうで、私たちもこの画家の回顧展を見るのはこれがはじめてです。

到着は4時を過ぎていましたので、館内は空いていて、佐橋とゆっくり作品を鑑賞出来ました。



利行については、その短い人生と画家自身の生活の破綻の印象がつよく、作品自体をしっかり見ようとする目が

どこか鈍ってしまっていたのだということに、今回この展覧会を拝見して初めて気がつきました。


素直に「長谷川利行さん、今まで、ごめんなさい」と思えるほど、とても良い展覧会でした。





夏の遊園地。どこかで感じたことのある雰囲気だと思いましたが、これは荒川遊園地。
チンチン電車に乗って、私も夏によく通った遊園地です。点描という技法がありますが、利行は 点でなく、短い線 の画家ですね。

対立する色彩を用いて、下町の小さな遊園地の哀愁をよく表現しています。

 








この蓮、花、りんごもとても良い作品でした。

利行作品は個人蔵が多く、これほど作品を集めるのは大変だったと感じます。

また、今まで自分たちのなかで「これは駄作だろう」と決めつけていた作品たちも

こうして画家の人生を追って、作品を見させて頂くと、決して駄作ではないのだということがわかります。

 






最後のガラス絵は、硝子が割れてしまっていたりするのですが、色が美しく、幻想的な世界を漂わせます。



安っぽく、不安定だとばかりと決めてかかっていた利行作品は、

堂々と安定した芸術性を持っていることにあらためて驚きました。

また、会場や図録の作品解説も、あぁ学芸員の先生方も皆さん長谷川利行がお好きなのだろうなぁと

実感でき、とても楽しめました。


展覧会は9月まで続きます。大変お暑いなかではありますが、どうぞ、みなさま是非お出かけくださいませ。

 

 

 碧南市制70周年記念事業 開館10周年記念 長谷川利行展 -藝術に生き、雑踏に死す-

碧南市藤井達吉現代美術館にて  9月9日まで

 

 

 おまけ 

同じ日に展覧会を鑑賞されたお客様から





 

美術館の並びにあるうなぎ屋さんのうな丼の画像をお送り頂きました。

展覧会か?うなぎか?どちらが目当てで、碧南までお出かけになったのか?わからないほど美味しい物がお好きなお客様です(^▽^)

私達は、夕方出かけたので美術館のいつものカフェで、あずきとずんだの玄米おはぎを頂いて満足しましたが、次には是非こちらのお店にも伺いたいと思います。

コレクターさんも、画商も、食いしん坊さんが多いのですよねぇ。

 

 

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アトリエの画家たち 高山辰雄

2018年07月11日 | 高山辰雄

このブログでもご紹介させていただきましたが、先日、私達は東京の世田谷区立美術館さんの高山辰雄展に伺って参りました。

「高山辰雄展」は 過去にも色々な場所へ伺い、何度か見させて頂いて参りましたが

特に晩年の作品が展示されているお部屋では、毎回、大変な感動を覚えて

帰ってくることが多くありました。

他の展覧会にはない画家の圧倒的な存在感を感じて帰ってくるのです。

今回もそうでした。というより、以前よりさらに深い感動を覚えました。

「この空気、この見えない力は何なのだろう?」と不思議に思いながら、立ち去りがたいお部屋を後にしてきたのです。

 

 

 

この「アトリエと画家たち」というご本をお客様に頂戴し、夢中になってページを開かせて頂き

今回、この高山辰雄展の最後のお部屋に対する私の疑問がずい分解けたように感じています。

 

筆と葉巻をもち、じっとご自分の描いている絵をみている画家。

きっと高山さんは、紙に筆を入れている時間より、こうしてご自分の絵をじっと眺め、考えたり、想像している時間がながくていらっしゃったのではないかと思えます。

以下、本文から抜粋させて頂きます。

 

 

 

「人間っていったい何だろう」と考え続けて50年、

夜空の星と会話を楽しむ高山さんのアトリエは、東京世田谷にある。

居間を兼ねる20畳に、テレビ、ラジオから身の回りのものが総て揃っている。

 

「芸術とは、人間の もがき の跡だと思う。

美しい花もそれだけでは芸術じゃないんだ。 

もがいているところの私が、どう近づくかという事柄が芸術であって、

実は私も、もがきあがれないかもしれないけれど、はいずり上がろうとしているんだ。

生きている証といて」

 

「心の画題はなるべく言葉に直しておくようにしている。

それがいつも頭の隅っこにあって制作意欲を刺激する。

どこかで見たもの、感じたものが何年目に出てくるのか分からない。

ひょっと浮かんでくるんだ。」

 

 

「人間無心に描くことが肝心。相手も自分もなくして、無意識になれたら

血管の中を流れている私が画面に露出してくれると思う。

画面と私、私と生きている人々との間に繋がりがあればいいんだけれど、

意識している間は繋がらない。

死んだ頃、やっとつながるんじゃないかと思うね。」

 

1982年 2月8日 

 

 

 

 

普通日本画は、デッサンや下絵を繰り返し、所謂「清書」としての本画を仕上げてゆきます。

高山さんは、そのデッサンや下絵をほとんど描かなかったようですが

なるほど、展覧会などでも余り丁寧なスケッチを見かけることはなく

先日の展覧会に展示されていた植物のスケッチも、お上手ではあるけれど

余り高山辰雄らしさを感じる事はありませんでした。

 

「もがき」

やはりこの言葉に、高山辰雄作品の魅力が隠されているように感じます。

人間ならば、誰もがそれぞれの生を引き受けて、前回の加藤登紀子さんではありませんが、

もがき苦しみながら生きているのだと思います。自分の舟を漕ぎ続けるのです。

そのもがきを人前にさらけ出さない、さらけ出したくないという感覚を日本人は多く持っているとも

思えます。

もがき苦しんで、今はここまで登って来ましたという結果を主に日本画家はその画面にある種の崇高さを持って提示し、観るものはその気高さ、謙虚さに胸を打たれます。

日本人として体に流れる美徳の血が騒ぎだすのです。小林古径などの作品がその最高峰に

有るでしょうか。(勿論その先を古径は求め続けていました)

 

高山辰雄は、その美徳の先にあるものを従来の道筋を歩まず、探そうとした貴重な日本の近代日本画家です。

もがきの川の底に眠るものを探りながら、漕ぎ続ける人間の根元的な営みの不思議を問い続け、

その筆には必然的に人間への深い慈しみが宿って行きました。

高山は‘もがき’の清書をしませんでしたので、時々、というか60代を過ぎるまでの

作品は難解で、今その作品に直面しても「なんのこっちゃ?」ということも多くありますが

私は、いつかきっと魂の世界で、また高山先生とお会いする事があったら

「先生の70歳におしゃっていた通りになりました。先生が亡くなってしまわれた後、

先生の作品は年々多くの人と繋がっていきます。しかも、深く繋がっていきます。

美の本質に触れさせて頂いたおもいです。」と申し上げたいと思っています。

 

 

そして、生きて居る間に東京の有力な画商さんの目を盗み、

高山作品を沢山扱わせていただいて、多くの皆さまとの繋がりを深く感じさせていただきたいと念じています。

 

   

身のまわりの全てのものをアトリエに持ち込み、

誰の為でなく、まして自分のためなどでなく、大好きな絵を描く事だけを己の生の証とした

九州男児らしい画家、高山辰雄のアトリエご紹介を最後にこの「アトリエの画家たち」の

ご本のページを閉じさせて頂きます。

 

今回も勝手なことばかり書かせて頂きました。

ブログをお読みくださる皆さまに、いつも心より感謝致しております。

今日は、最もお暑くなるそうです。皆様のおさわりない1日をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アトリエの画家たち

2018年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム

 

「洋画家に比べると、きっと日本画の作家のアトリエには嘘があるよ」 

佐橋が「アトリエの画家たち」を見て、そう言ったのは意外でした。

「うそ?」

「取材が入るから、ちょっとアトリエを片付けたりしてね」

 

 

 

なるほど〜

確かにわたし達の好きな丘人さんや善彦さんのアトリエやご本人のポーズにも、少し構えた感じがはありますね。

 

 

 

 

 

   

 

「では、この方はどうなるの?」と私がこのページを開いて佐橋に聞いてみると、

「うーん、こんなに片付いたところで、絵が描けるわけがない。。。

いや、東山魁夷ならここで描くのだろうな。嘘はきっと無い。」

 

「そうでしょ、。そう思わせるでしょ、東山魁夷は。。その事自体がもう立派なのよね〜」と私。

 

 

そうなのです。

写真の隣のページの解説を読むと、東山さんは、ふすまの奥の整理された場所から使う絵の具や

道具を一つづつ、出してはまた仕舞いながら作品を描くとありました。驚きですね。

 

アトリエが、その画家と作品を如実に物語ることがよくわかり、大変良い勉強になりました。

 

次回は最後に高山辰雄のアトリエをご紹介して、このシリーズを終えようと思います。

 

 

 

 

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アトリエの画家たち 麻生三郎

2018年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム


さて、アトリエの画家達、そろそろ最終章にはいります。


この本を見て、また読んで、1番感心したのは



この麻生三郎のアトリエです。

画室が、もう、そのまま麻生の作品になっている。


そう感じました。


筆を持たず、この部屋に座る麻生もしっくり画面に馴染んでいます。


以下画家の言葉です。

絵っていうのは小さい絵でも大きい部屋で見るといいですよ。

距離があったほうがいい。

広がりって大切ですね。

広がりのない絵はつまらない。


仕事をしていなければバランスが取れない。

というより呼吸して心臓が動いている以上は欠落したら駄目。

絵を描くという仕事は、形にしてものを考えること。

前進するには形にしなければものは考えられない。

1982年9月25日








麻生の作品を、今ひとつ感じられていないなぁ〜と自分でもよく思います。

次回麻生の作品に出会う時は、少し距離を置いて観てみようと楽しみになりました。


お部屋にいつも飾ってある作品を、一つ外して、、


ご自分の心地よい余白、作品とご自分の本当の距離を探してみてくださる

ことはとても大切なことかもしれません。



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