つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

小杉放菴 軸 奥昇仙峡

2017年10月28日 | 小杉放菴

 

小杉放菴 紙本・墨 軸 「奥昇仙峡」 共箱  32×27㎝ 198,000

 

また雨の静かな土曜日となりました。

おかげさまで展覧会の準備も進み、明後日からの開催を待つばかりとなりました。

 

 

最近では、応接間のドアの後ろ、お床のわきの小さなスペースに放菴の作品を飾ることが多くなりました。

こちらからご紹介しなければ、なかなかお気づきにくい場所ですが、

どういうわけか、放菴のお好きなお客様はこの場所の作品を

初めてのご来店のかたでも必ず見つけ出してくださいます。

作品がお客様をお呼びしているようで、いつも不思議に思っています。

 

 

昇仙峡は山梨県甲府市北の名勝です。

私は、残念ながら伺ったことがありませんが、

放菴はこの地をきっと訪れたのでしょう、奥昇仙峡 板敷渓谷 と画面の下に記載しています。

板敷渓谷

 

 

右下に帽子をかぶり、ちょこんと座っているのはきっと放菴自身でしょう。

生きることを楽しむなんて

なかなかそんな心境にはなれないことかもしれませんが

大きな自然にいだかれる時、全てを俯瞰するとき、そしてこんな絵に触れるとき、

とても安らかな気持ちを得ることができるように思います。

一服の、コーヒーやお茶をお淹れになるおつもりで、

小さなお軸を小さな壁面に開いたり、巻いたりしていただけたらと

思います。

 

 

 

 

 

なかなか遠く伺えませんが、日光美術館はとても素敵な、また放菴の作品を濃密に楽しめる美術館さんです。

日光にお出かけの際は是非お立ち寄りになってみてください。

 

 

 二社一寺(東照宮・輪王寺・二荒山神社)を中心とした由緒ある文化財の集積地である日光市山内……。
 世界遺産に隣接する、この山内の地において、足下で大谷川と稲荷川が合流し、神橋の赤い欄干を望むことができる高台に、小杉放菴記念日光美術館はあります。


 小杉放菴記念日光美術館では、「自然へのいつくしみ」を基本テーマに、日光市の名誉市民である画家・小杉放菴の画業を御紹介するとともに、この画家を育んだ近代の日光における、さまざまな文化的事象について考察することも目標としています。
 なお、小杉放菴記念日光美術館は、「日光市立美術館」として、旧・日光市により建設されました。開館の当初から、「財団法人 小杉放菴記念日光美術館」が管理運営を受託しており、指定管理者制度の導入後も、引き続いて管理運営を代行しています。

 

小杉放菴について

 小杉放菴は本名を国太郎といい、1881(明治14)年に日光で生まれました。日光在住の洋画家・五百城文哉に学んだのち、上京して小山正太郎の不同舎に入塾。未醒と号して、主に太平洋画会展で活躍し、文展でも2度にわたって最高賞を受賞します。
 その間、漫画家や挿絵画家としても頭角をあらわし、美術雑誌『方寸』などの編集に参加。のちには、横山大観と親しくなったことから、再興日本美術院にも、当初から同人として加わり、洋画部を主宰しました。院展の洋画部は第7回展で解散したため、未醒らは新たに春陽会を結成しますが、それからも、親しい友人であった山本鼎の農民芸術運動に協力するなど、その芸術活動にはたいへん幅広いものがあります。また、かなり早い時期からテニスや野球を楽しんでいたスポーツマンとしても知られており、国木田独歩や芥川龍之介といった作家や、その周辺の学者、思想家、財界人たちとの親密な交友関係もありました。

 大正末から昭和初頭にかけての時期に、雅号を放庵(のちに放菴)と改めて、次第に水墨と淡彩による表現への関心を深め、日本画の世界においても、独自の枯淡な境地を創造しますが、晩年は新潟県赤倉の山荘に住んで、仙人になったと評される生活を送り、1964(昭和39)年に没しました。
 代表作には、東京大学・安田講堂の壁画や《水郷》《山幸彦》《奥の細道画冊》などがあり、それらの作品に現われた自然への優しく確かな眼差しは、幼い頃に過した日光の風土に対する回想が基調になっているとされています。日光市名誉市民。

 

 

 

 

 

 

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長沢蘆雪展

2017年10月24日 | おススメの展覧会、美術館訪問

大きな台風が過ぎさっていきました。

皆様、お障りなくお過ごしでいらっしゃいましょうか。

 

 

 

先日、私達は愛知県美術館の長沢蘆雪展に伺って参りました。

蘆雪についてはよく皆様もご存じかと思いますが、やはり画家の一生の仕事を一堂に鑑賞することは大切なことですね。

今回、初めて、蘆雪という画家の本質に触れることができたように思えます。

 

虎図や龍図をご紹介するまでもないと存じますので、私が今回感銘を受けました2点だけ少しご紹介申し上げます。

 

 

 

朝顔に蛙図襖 和歌山県高山寺蔵

 

この大きな画面にこれだけしか描いていないのに。。

柔らかな墨の色の、しかも細く、優しい線だけで、自然の持つ深みと大きさをここまで表現できるのだと感動いたしました。

しかも、朝顔の花の描写、蛙の描写には細心の注意を払い、生き物の息遣い、緊張を見事に捉えています。

 

 

牧童吹笛図 京都府 久昌院蔵

 

所謂十牛図ですが、これを[指頭図 しとうず]といって、筆でなく指に墨をつけて描いた作品だということを

知り大変驚きました。

 

この画像ではよくわかりませんが、牛のお口から一筋長く、よだれが垂れているのです。

牛の腰から後ろ足の表現といい、本当に素晴らしいなぁと思いました。

 

蘆雪は46年の短い人生に実に様々な描法を駆使した画家です。

時には「やり過ぎではないのか?」と思うほどの画面構成も、応挙のもとで修業した技量がそれを補い、力強い作品として完成させてしまいます。

面白い物、可愛い物、怖いもの、、子供のような興味をそのままに絵を描き続けたようにも思え

蘆雪という画家の人柄は、よく言われる豪放磊落なものでなく、案外気が弱く、人懐っこいものであったのではないかと想像してしまいます。

 

 

画面からあふれるように描かれた象の背中にのるカラスは

つねに師である円山応挙という大きな名前のもとに、自由に遊び続けた蘆雪という画家そのものであったように感じます。

 

 

 

京(みやこ)のエンターティナー 蘆雪 開館25周年記念 長沢蘆雪展 愛知県美術館 11月19日まで

 

 

 

 

 

 

 

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日本人の心 相良亨

2017年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

学生時代に、しかも実母を失って間もなくに、相良亨先生にお会いできたことは私にとって大変光栄なことでした。

今日10月14日は先生のご命日にあたり、

私は毎年この頃の数日間に相良先生のご著書を少しだけ読ませていただくようにしています。

といっても、なかなか難しい内容も多く、確かに学生のころよりは理解できる部分も増えましたが、長い人生をかけての宿題をいただいているようにも感じています。

 

十五夜から十三夜へ。

この一年で最も月の美しい季節に先生が「竹取物語」に触れてお書きになっている文章を

皆様にここで少しご紹介させていただこうと思います。

 

 

 

この地上であまたの年をへるうちに、かぐや姫はものを思い涙するかぐや姫となった。

世間(よのなか)の「あはれ」を知るかぐや姫となった。

この世はもの思いのある世界であり、月の都はもの思いのない世界として憧憬の対象であったが、かぐや姫はこのもの思いのあわれにはまり込み、月に帰らずにこの世にとどまることを願うかぐや姫となった。

 

使いの天人が別れを惜しむ彼女に出発を促し羽衣を着せようとすると彼女は「もの知らぬことな のたまひそ」と拒んで帝への文を書く。

文には帝の恋を受け入れなかったわけが綴られ、別れのこの時において素直に帝への

恋心を書き残したのものである。しかし、羽衣を着せられた彼女は、もはや翁をも帝をも

「いとほし、かなし」と思うことなく、「もの思ひ」のない天女となって昇天してしまった。

 

このように「竹取物語」は

「もの思いのない」月の世界を憧憬しつつも、なお「もの思いを知る」ことに天上にはないこの世の意味を認めている。

 

中略

さて、かぐや姫は不死の薬を帝と翁に置いていった。しかし、かぐや姫とともに生きるのでない永生には意味がないと帝はその薬をかぐや姫にあてた文とともに富士の山の頂きで焼かせた。

富士の頂は月の都に一番近いところである。

その頂から、不死の薬と文を焼く煙は今も立ち上っているという。

 

帝は絶ちがたい思慕の情を持っているが、月の世界との隔絶も知っている。

隔絶を知っても、思慕の情は消えない。帝が富士の頂で不死の薬と文を焼いた行為は

この鬱情をはらす行為ではないだろうか。

はらす行為は、一面において恋慕の情を示す。

だが、鬱情は外に吐き出されることによって癒されていく。

しかも、ひとすじの立ちのぼる煙として、このはらす行為が宇宙に位置をもつとき、帝の心も、悲しみを残しながらそのまま大いなる宇宙にいちづけられてくるのではあるまいか。

このような心のありようが「あきらめ」といわれるものではあるまいか。

立ちのぼる煙は、帝のこのような「あきらめ」への営みと、その営みによってもたらされた帝の心の安定を示しているのではあるまいか。

中略

憧憬の世界は至り得ない彼方にある。

憧憬するものを我が物となし得ない時に、自らの存在が根底から崩壊する可能性がある。

だが、「あきらめ」は憧憬を残したまま自らを安定にもたらしてゆくものである。

至り得ない憧憬の世界を彼方に描く者にとって「あきらめ」は生の支えである。

 

以上 相良亨著 日本人のこころより抜粋

 

 

 

 

この「あきらめ」のなかに、日本人はその美意識を育んできたようにも思えます。

日本人としての私を探し、これからも多くの美術品に触れてゆきたいと願っています。

 

今週も多くのお客様にお立ち寄り頂きました。誠にありがとう存じました。

 

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京都寺町あたり

2017年10月06日 | わたくしごと

先日の京都では午前中に絹谷先生の展覧会にお邪魔して、その後夕方の予定まで時間がありましたのでぶらぶらと町めぐりをさせていただきました。

 気温も不安定でしたので佐橋も私もジャケットや帽子を着たり、脱いだりの移動になりました。

ちょうど私の水引の先生が京都の三ヶ所で展覧会を開かれていたので、スタンプラリーの

ようにそちらに伺いながらの町歩きはとても楽しめました。

 

まず美術館近くの神宮道沿いのスタジオじゅえるさんへ。

以前わけていただいたビーズアクセサリーの修理をしていただきました。

ついでにあたらしいネックレスもゲット

 

寺町あたりでは家具屋さん巡り 芸艸堂さんでははがきなどを 清課堂さんでは銀のお匙をわけていただきました。

 

 

 

当日は大きなバッグを名古屋に送り返してしまっていたので小さなバックを持って移動。

色々なお店で買わせていただいたお品をこのビニールの袋に入れてふらふらと歩いていました。

 

 

夕方の予定を終えて、日も暮れた6時ごろ、そろそろ名古屋に戻ろうと

地下鉄の入り口に足を踏み入れた瞬間「あれ?なにか足りない」と

自分の手元の身軽さに驚きました。ジャケットと帽子を身に付けてみて

「ビニールの袋がない!」とわかったのです。

 

こういったとき佐橋は優しいのです。

「よく探せ」とか 「なにしてるんだ」 なんて言わず

すぐに今日二人で歩いた道筋を思い出してくれ、ほとんどすべてのお店に

電話をかけてくれました。けれど全て忘れ物はありませんというお返事。

普段から忘れ物やドヂの多い私は、どこかを立ち去るときは

できるだけ忘れ物を確認するようにしていますが、なにも今お買い物をしたばかりの品物を

忘れてしまわなくても・・

アクセサリーなどはどうして無理をしてもバッグにいれなかったのか、、

頭がグルグルになります

 

諦めるか?執念深く探すか?の基準は結局

「諦められるのか??」なのですね。

修理に出したアクセサリーも新しく買ったアクセサリーも、

銀の匙も。。あぁ、やっぱり諦めきれない。

 

「あのときは?」「あのときは?」と佐橋がゆっくり聞いてくれたこともあり

気持ちがかなり冷静になってきました。

 

 

 

どう考えても忘れ物をしたのはあの錦のスターバックスです。

お店が混んでいらして、椅子の空くのを待っていらしたカップルに

わざわざ私からお声がけをして慌てて席を離れたあの場所。

佐橋がトイレに立った間に今日の戦利品をニヤニヤしながら少し検品した

あの場所にちがいありません。

一番に電話をさしあげ、店員さんがしばらく探してくださっての「残念ながらありません」

のお答えを疑うわけではありませんが

佐橋にお願いをしてもう一度あのスターバックスさんに連れていってもらうことにしました。

 

 

ガラス張りのお店。二人で座った席は道沿いのそとからすぐ見渡せるテーブルです。

私たちがそこを離れてからすでに3時間近くがたっていました。

 

 

あぁ、やっぱりないかとお店に近づいて歩いていくと。。

窓側の椅子の後ろ、大きなガラスの下の方にこのピンクの袋がぴったりとくっついていたのです。

「あぁっっっっ、まーーちゃん、あったぁぁぁぁ~

私は半べそで佐橋に抱きついていました。

 

 

すごい!わたし!ついているかも!

すごすぎる!運をつかいはたしたかも~

京都駅にもどる地下鉄で自問自答を繰り返したのはお伝えするまでもありません。

 

 みなさまどうぞ

お客様のところにこの大津絵のはがきが届くことがございましたら、

当店でコーヒーにこの銀の匙が付いてきましたら、

私がこのネックレスをしておりましら、

あぁ、それが例の~とお思いくださいませね。

 

今日もお客様にお送りする案内状のあて先を

長い間なんの配慮なくお勤め先にお送りしてしまっていたことをご来店のお客様に

お知らせいただいて気づきました。

ドヂにもまして失念してしまうことも多いことをお客様がたにお伝えして

「お許しください。助けてください。」というのも大変無責任なお話ですが、

これからも皆さまになにか失礼がございましたら、是非なんなりとご遠慮なくお伝えくださいますようあらためてお願い申し上げます。

 

それでも欲しいアクセサリー、それでも行きたい京都、それでもやりたいお仕事。

人は幾つになっても大騒ぎしながら生きていくのかもしれません。

 

 

 

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お月見の季節

2017年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

久しぶりに亀広良さんに寄らせていただきました。

お月見の季節には 

吉岡堅二のうさぎ

前田青邨のお軸の桔梗 をお飾りになっていらっしゃいました。

初秋というよりは錦秋のころの肌寒さですが、

この季節を丁寧に過ごしたい、そう思える設えを楽しませていただきました。

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