日曜日に楽しみにしていた展覧会、
没後100年 岡崎が生んだ天才 村山槐多展
に伺って参りました。
まず、みなさまにもぜひお出かけいただきたくご紹介申し上げます。
これだけの展覧会を開かれても、直接のホームページをネット上に探せないもどかしさ。。
村山槐多については、今までその作品を鑑賞する機会も少なく、上の作品のように、青年期の危うい感傷をエネルギッシュに画面にぶつけた夭折の画家というイメージしか持てずにいました。
今回、おかざき子ども美術博物館の村松先生を中心とするみなさまのご研究、ご努力の成果によって、槐多の新発見の作品が数多く見出され、この作品を鑑賞させていただいて、村山槐多の画家としてのイメージが大きく変わった事に、私達も大いに驚き、また深い感動を覚えました。
この展覧会は、きっとこれから評判を呼び、皆さまのお近くの美術館さんでも開かれることがあるかと存じますが、とりあえず岡崎市にお出かけの機会のない皆さまにも、求めて帰りました図録掲載の作品を少しご紹介させていただきたいと思います。
明治44年 画家15歳屋根山村の人と家など
明治45年 16歳瀧安寺冬の石など
大正2年 17歳花
大正3年 18歳素描
大正4年 19歳素描
大正6年 21歳赤ダリア
大正8年 22歳他界
村山槐多の10代の頃の穏やかで、伸びやかな風景画に、この画家の本質を見出そうと試みれば
その分、彼の才能を見出し、この画家を支えつづけた山本鼎や小杉放庵との出逢い、そして彼自身の画家としての志や努力、若者らしい野心に 「運命の皮肉」を感ぜずにはいられません。
画家としての才能を持ちながらも、画家として生きていきたいと願った瞬間に、村山槐多は自らの心と体をを傷つけるという道しか選ぶことができなかった。。そう言えるのではないでしょうか。
ここにも一人、ガラス細工のような作りの人間が、
大いなる才能を持ったまま、それを短い人生に昇華しきれたのか?しきれなかったのか?の判断も待たず命を失ったいう事実があります。
破茶滅茶な生活。
それでよかったのだ。
だからこそ、村山槐多は本人の望み通り天才画家として名を残せたのだ。
10代の頃のあの作品たちを拝見し、
「そう思うしか道の無い」私自身にも少し哀しみを覚えました。
槐多の1919年の他界後、16年のちに高村光太郎が書いた詩を最後にご紹介いたします。
「村山槐多」(1935年)
槐多は下駄でがたがた上つて来た。又がたがた下駄をぬぐと、今度はまつ赤な裸足で上つて来た。風袋のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。黒チョオクの「令嬢と乞食」。
いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を偏在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。
「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」「居るよ。」「僕は眼がつぶれたら自殺します。」
眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。