つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

薔薇に思う 1 お客様からのメール

2019年09月11日 | 松田正平
先日お客様からこんなメールが一通届きました。





「こんなのみつけました。それだけです。」


画像一枚。文一行。

大変簡潔なメールの中にこの方の深い優しさを感じます。いつもこのようなメールをお送りくださいますが、今回は少し「松田正平風」を楽しんでいらっしゃるようにも思えました。




私は、この画像の中の上の段落の文章も気にかかり、掲載雑誌をお見せくださるようにお願いをしました。するとすぐにこの月刊誌の2016年版をお持ちくださったのです。






このお客様の「資料をみつける」お力にはいつもとても驚かされます。もちろん、ご本人の興味のある作家、作品だけの掘り下げとなりますが、おみつけくださる資料に当店もいつも助けて頂いています。








松田正平の資料を探すのは案外大変です。展覧会の図録は売り切れ、画家本人の著作本も人気が高く、高価になっています。

ご覧になりにくいといけませんので、私の気になった部分のみ抜粋をさせていただきますね。


📝📝
ところが、70年代に入ると一転、薄い絵の具を塗り重ね、拭き取っては削るという繊細な表現方法を用いるようになった。
歳を経るにつれ、その繊細さは増し、簡素なフォルムと透明感のある色彩は際立った。
何故この線と色でこれほどまでに海が表現できるのか、驚くばかりである。
洲之内徹は松田の絵をこう評している。

「いうなれば、松田さんというバッテリーは、長い年月をかけて果たされた形というものへの理解の深まりでたっぷり充電されていて、一見無造作でしかもよく決まる洒脱な線をいくらでも生み出して行くかのようである。」(帰りたい風景)



この春、親しい友人が亡くなった。山形で整形外科医院を営む医師で、彼は松田正平のファンだった。
入院中に見舞いに行くと、病室に松田の薔薇の絵が置いてあった。薔薇もまた、松田の重要なモチーフの一つである。

ただし、花屋で買った薔薇は描かない。自分の好きな品種を庭で育て、花を咲かせ、咲いた花を花瓶に活けて描く。

かつて松田の家の庭に咲いていた花が松田の絵となり、私の友人を送ってくれたのだと思うと、嬉しい。

🖌🖌🖌


先の坂本繁二郎の記事に「自己の消滅」ということを書かせていただきました。夏目漱石のいうところの「無私」といってもいいかもしれません。

松田正平は、その作品に自己の消滅を行き渡らせ、線と色面という絵画の本質だけをことごとく簡潔に、鋭く表現することのできた稀有な洋画家であったと思えます。


同じように、熊谷守一作品にもこの自己の消滅を深く感じることができ、多くの鑑賞者を受け入れる力を持っていると思いますが、守一という画家のある種の粘着性、強さを感じる時、さて、松田と熊谷の違いは?
と迷い、またそこに好みも分かれるのではないかと思っています。


作品のお値段的には圧倒的に守一に軍配が上がるのだろうと思いますが、その意味にも少し興味があります。


「薔薇」に思う。

丁度守一展も開催中です。

近く伺って、日本の洋画について続けて考えていきたいと思っています。












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坂本繁二郎展

2019年09月09日 | おススメの展覧会、美術館訪問
大きな台風が過ぎて行きました。
皆さまには、お障りなく新しい週をお迎えでしょうか?

名古屋はとてもとても蒸し暑く、一ヶ月前のお盆の頃を思い出させる一日となりました。



残念ながら今月16日まで東京練馬区立美術館さんで開催中の没後50年坂本繁二郎展に伺うことができそうにありません。

名古屋からこの展覧会にお出かけになられたお客様が当店にこの展覧会図録をお持ちくださいましたので、この二日間のお休みにゆっくりと作品を拝見することができました。

先日東京からお立ち寄り頂いたお客様も、こちらにお出かけになられたとお聞きし、ご感想もいただきましたので、参考にしながらページをめくらせていただきました。






繁二郎といえば、やはり馬や能面を描いた作品のイメージが強く、作品のうちの「精神性」を高く評価される日本洋画家の1人であると思います。



視力を弱めた画家晩年の月を描いたシリーズは、なんとも言えず美しい作品群で、
これだけの繁二郎作品を一度に鑑賞できる機会は少ないだろう、直接作品を見てみたかったという思いをさらに強くします。






当店でよく扱わせていただく、日本画家徳岡神泉は、繁二郎の作品をこよなく愛し、また繁二郎30歳の時の文章

「自分なる者があっては真の物は未だ認められない。自分を虚にしてはじめて物の存在を認め、認めて初めて真の自分が存在してくる。真の存在の心は一元と脈動した意識である。刹那刹那のみを、自分たり得る心である。強いて説明すれば消滅する心だろう・・。所詮達人の芸術が人心と深き交渉を持つところは、虚の意識或いは一元の意識に接触の境地、又はそれに近い或るものの存在であると思う」

に大変刺激を受けたことを図録から新たに知ることもできました。


やはり坂本繁二郎は、60年以上に及び、長い画業をコツコツと歩み、志高く「無限」を求め続けた画家と言えるように感じます。

ただ、一つ、当店では、まだ坂本作品を本格的に扱わせて頂いたことがありませんので、なんともきちんとはお伝えできないのですが、

私自身が若い頃、というよりつい最近まで

坂本を語る時、必ず同時に語られる青木繁の作品の「センチメンタル」を嫌い、どこか強く坂本作品への憧れを持っていた気がするのですが、いよいよ今の年齢になってみますと、青木繁のセンチメンタル、青くささ、その青くささをも超えるあのセンス、鋭い才能をなんとも可愛い?愛おしく思え、坂本作品への想いが少し薄れているのに気づくのです。




青木繁を支え続けた坂本のこの作品に青木は勝手に手を加え、坂本をとても怒らせたというエピソードが掲載されていましたが、そしてこのご覧の作品は、坂本が描きなおしたといわれているそうですが、
この人参の赤さを見る時、やはり坂本にどこか鈍さを感じてしまうのは、私だけでしょうか?

作品や画家への思いは、年々変化していくものであるとこの頃つくづくと感じます。
そして、坂本が30歳時に述べたように、その変化を否定しないことも自己の消滅への第一歩であるように今は感じています。













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ちょっとやりすぎちゃったかな? フォトチャンネルのご案内

2019年09月09日 | 看板犬
ボストンテリアのモノちゃんの近影です。

モノちゃんは女の子。生後半年を過ぎてこの夏手術を受けました。






このピンクのお洋服は傷を保護する為の物だそうです。

お腹の傷が癒えないうちに、今度は一番大好きなご主人さまが親知らずの抜歯の為に2日間お家を留守にする事がわかり(気配を感じるのだろうと思うのです)

きっと痛くて、寂しくて、つい





こんな事もしてしまったのだと思います。



そして



ちょっとやりすぎちゃったかな?のお顔。


このお顔にこのタイトルを付けたのは、私ではなく、モノちゃんのご主人さま=maho さんである事が、モノちゃんにとって唯一の救いだろうと思えます。



ご主人さまも無事にお家に戻り🏠モノちゃんは元気に過ごしているようですが、なんとモノちゃんはこのピンクの服を勝手に脱いでしまって、傷を舐めてしまうので、こちらの「抜糸」が延期になってしまったそうです。

動物病院の先生が「この服を自分で脱いじゃう子は初めてだ💦」とおっしゃっていたとも聞きました😆



人がわんちゃんと暮らす苦労、
わんちゃんが人と暮らす苦労。



共に苦労を乗り越えてこその、愛情交換なのだと学びます。




最後に作家中野孝次さんの文章ご紹介くださっていたサイトからお借りした文章をご紹介させて頂きます。


犬を飼っていたところで特別のことがあるわけではない。

それどころか、毎日の食事の世話とか、病気の心配とか、朝夕の散歩など、厄介なことの方が多いのだが、それでも私と妻が三十年も犬と共に暮らし続けてきたのは、犬というものが我が家にいることが、なんともいえぬ心の喜びを与えてくれるからであった。

それは一言で言えば、こちらの愛したいという本能を呼び起こす生きものがそこにいて、愛を受けとめ、向こうもまた正価でそれに応じる。そのへんの心の通いあいが何ともいえずいいということになる。人間どうしではなかなかそうはいかないのだ。」







PC版でこのブログをご覧くださる皆さまには、左下のフォトチャンネルから当店の店内の様子とモノちゃんの画像をご覧頂けるように致しました。






皆さまからの画像もお分けいただきたく存じます。共にお暮らしの美術品やご所蔵品、設えのご様子やわんちゃん、猫ちゃん、植物の画像を是非お送りくださいませ。ブログ掲載お断りの際は、画像をお送りくださる際にその旨を一言お伝えくださいましたら、決して他にはお見せせずに私一人で楽しませて頂きますので、どうぞ安心して「美しいもの拝見願望」の強い私への励ましをお願い申し上げます。









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石川九楊展

2019年09月03日 | おススメの展覧会、美術館訪問
1日の日曜日には名古屋古川美術館さんで開催中の  書だ!石川九楊展 に伺って参りました。

みなさまよくご存知の書家であり、評論家である石川九楊さんの書の展覧会です。

作品をいくつかお見かけしたことはありますが、個展に伺うのは初めてですので、どのような印象を受けるのか、とても楽しみでした。


書を始めてから、九楊さんのご著書やラジオでの講演などに触れさせていただく機会が増え、作品への興味は増すばかりでした。







けれど。。ですね。やっぱり読めません。
一つ一つ、きちんと点画を踏まえた文字であることはわかるのですが、全く読めません。こういう時、人は「わかろう」としてしまうのですね。佐橋も私も珍しく作品の横の解説文を一生懸命読んだりしました(^^;;

いけない、いけない。

読めずとも、少し筆跡を追ってみると、それぞれの作品からは、音楽を聴いているような、絵画を見ているような印象を受けました。

絵としてみるのか?


館内で上映されているこの書家の制作の様子を拝見すると、その筆使いは絵描きさんのものでなく、間違いなく書を書いている筆の動きなのですね。

やはり、書だ!
そうか、タイトル通り、書だ!





「書はもとより造形的なものであるから、その根本原理として造形芸術共通の公理を持つ。比例均衡の制約。筆触の生理的心理的統整。布置構造のメカニズム。感覚的意識伝達としての知性的デフォルマション。すべてさういふものが基礎となってその上に美がなりたつ。さういふものを無視しては書が存在し得ない。書を究めるということは造形意識を養うことであり、この世の造形美に目を開くことである。書が真にわかれば絵画も彫刻も分かる筈であり、文章の構成、生活の機構もおのづから通じて来なければならない。書だけ分かってほかの物はわからないというのは分かりかたが浅いに他なるまい。書がその人の人となりを語るということもその人の人としての分かり方が書に反映するからであろう。」

ふと高村光太郎の言葉を思い出し、九楊さんの「人としてのわかり方」を感じてみることだけに集中をして、自分の好きな作品をさがしてみようと思いました。





そして最期の最期の展示で、「あっ、この作品は好きだなぁ。なんだかとっても切ないなぁ」と思えました。

作品横のタイトルには「妻を語るIII」とありました。九楊さんはまだ最近、奥さまを
失われたばかりでいらっしゃいます。



作品を拝見して、一番感動したのは、書にこれほどの信念を持って立ち向かわれる書家が今、現代にいてくださるという実感を得られたことです。果たして、画家の世界にここまでの方がいらっしゃるでしょうか?


お金の為でなく、人のためでなく、天に向かって仕事をする。その気骨、そして奥さまを思う優しい気持ち。私なりにそれを感じることができてとても嬉しいきもちになりました。

頭でわかろうとする欲を少し抑え、身の丈いっぱいに心を開いてみれば、そっと応えてくれる。それが本当の芸術だろうと思えます。


分館の為三郎記念館さんにも九楊作品の展示が続いていましたので、久しぶりにお庭も拝見することができました。

展覧会は10月6日まで。講演会やサイン会などまだ企画を残していらっしゃるようですので、よろしければ是非お出かけくださいませ。














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熊谷守一展

2019年09月02日 | おススメの展覧会、美術館訪問
展覧会のご紹介を2つさせて頂きます。
 
熊谷守一展は静岡県立美術館さんで現在開催中で、私達も伺いたいと思っておりますが、伺ってからのご紹介ですと閉会間際になってしまいそうですので、とりあえずのお知らせをさせて頂こうと思います。
 
 
 
 
 
 
 


 


 
 
こちらはぐんとお若い日本画家さんの展覧会のご紹介です。
 
佐久間さんの作品は高校生でいらした頃より拝見させて頂いています。人物描写をお得意とされていますが、描く「目と手」にこれから益々ご本人自身の生の実感が投影されていかれるだろうと楽しみにしています。
 
特に名古屋のみなさまにご紹介申し上げます。
 
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