先日お客様からこんなメールが一通届きました。
「こんなのみつけました。それだけです。」
画像一枚。文一行。
大変簡潔なメールの中にこの方の深い優しさを感じます。いつもこのようなメールをお送りくださいますが、今回は少し「松田正平風」を楽しんでいらっしゃるようにも思えました。
私は、この画像の中の上の段落の文章も気にかかり、掲載雑誌をお見せくださるようにお願いをしました。するとすぐにこの月刊誌の2016年版をお持ちくださったのです。
このお客様の「資料をみつける」お力にはいつもとても驚かされます。もちろん、ご本人の興味のある作家、作品だけの掘り下げとなりますが、おみつけくださる資料に当店もいつも助けて頂いています。
松田正平の資料を探すのは案外大変です。展覧会の図録は売り切れ、画家本人の著作本も人気が高く、高価になっています。
ご覧になりにくいといけませんので、私の気になった部分のみ抜粋をさせていただきますね。
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ところが、70年代に入ると一転、薄い絵の具を塗り重ね、拭き取っては削るという繊細な表現方法を用いるようになった。
歳を経るにつれ、その繊細さは増し、簡素なフォルムと透明感のある色彩は際立った。
何故この線と色でこれほどまでに海が表現できるのか、驚くばかりである。
洲之内徹は松田の絵をこう評している。
「いうなれば、松田さんというバッテリーは、長い年月をかけて果たされた形というものへの理解の深まりでたっぷり充電されていて、一見無造作でしかもよく決まる洒脱な線をいくらでも生み出して行くかのようである。」(帰りたい風景)
この春、親しい友人が亡くなった。山形で整形外科医院を営む医師で、彼は松田正平のファンだった。
入院中に見舞いに行くと、病室に松田の薔薇の絵が置いてあった。薔薇もまた、松田の重要なモチーフの一つである。
ただし、花屋で買った薔薇は描かない。自分の好きな品種を庭で育て、花を咲かせ、咲いた花を花瓶に活けて描く。
かつて松田の家の庭に咲いていた花が松田の絵となり、私の友人を送ってくれたのだと思うと、嬉しい。
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先の坂本繁二郎の記事に「自己の消滅」ということを書かせていただきました。夏目漱石のいうところの「無私」といってもいいかもしれません。
松田正平は、その作品に自己の消滅を行き渡らせ、線と色面という絵画の本質だけをことごとく簡潔に、鋭く表現することのできた稀有な洋画家であったと思えます。
同じように、熊谷守一作品にもこの自己の消滅を深く感じることができ、多くの鑑賞者を受け入れる力を持っていると思いますが、守一という画家のある種の粘着性、強さを感じる時、さて、松田と熊谷の違いは?
と迷い、またそこに好みも分かれるのではないかと思っています。
作品のお値段的には圧倒的に守一に軍配が上がるのだろうと思いますが、その意味にも少し興味があります。
「薔薇」に思う。
丁度守一展も開催中です。
近く伺って、日本の洋画について続けて考えていきたいと思っています。