大きな台風が過ぎて行きました。
皆さまには、お障りなく新しい週をお迎えでしょうか?
名古屋はとてもとても蒸し暑く、一ヶ月前のお盆の頃を思い出させる一日となりました。
残念ながら今月16日まで東京練馬区立美術館さんで開催中の没後50年坂本繁二郎展に伺うことができそうにありません。
名古屋からこの展覧会にお出かけになられたお客様が当店にこの展覧会図録をお持ちくださいましたので、この二日間のお休みにゆっくりと作品を拝見することができました。
先日東京からお立ち寄り頂いたお客様も、こちらにお出かけになられたとお聞きし、ご感想もいただきましたので、参考にしながらページをめくらせていただきました。
繁二郎といえば、やはり馬や能面を描いた作品のイメージが強く、作品のうちの「精神性」を高く評価される日本洋画家の1人であると思います。
視力を弱めた画家晩年の月を描いたシリーズは、なんとも言えず美しい作品群で、
これだけの繁二郎作品を一度に鑑賞できる機会は少ないだろう、直接作品を見てみたかったという思いをさらに強くします。
当店でよく扱わせていただく、日本画家徳岡神泉は、繁二郎の作品をこよなく愛し、また繁二郎30歳の時の文章
「自分なる者があっては真の物は未だ認められない。自分を虚にしてはじめて物の存在を認め、認めて初めて真の自分が存在してくる。真の存在の心は一元と脈動した意識である。刹那刹那のみを、自分たり得る心である。強いて説明すれば消滅する心だろう・・。所詮達人の芸術が人心と深き交渉を持つところは、虚の意識或いは一元の意識に接触の境地、又はそれに近い或るものの存在であると思う」
に大変刺激を受けたことを図録から新たに知ることもできました。
やはり坂本繁二郎は、60年以上に及び、長い画業をコツコツと歩み、志高く「無限」を求め続けた画家と言えるように感じます。
ただ、一つ、当店では、まだ坂本作品を本格的に扱わせて頂いたことがありませんので、なんともきちんとはお伝えできないのですが、
私自身が若い頃、というよりつい最近まで
坂本を語る時、必ず同時に語られる青木繁の作品の「センチメンタル」を嫌い、どこか強く坂本作品への憧れを持っていた気がするのですが、いよいよ今の年齢になってみますと、青木繁のセンチメンタル、青くささ、その青くささをも超えるあのセンス、鋭い才能をなんとも可愛い?愛おしく思え、坂本作品への想いが少し薄れているのに気づくのです。
青木繁を支え続けた坂本のこの作品に青木は勝手に手を加え、坂本をとても怒らせたというエピソードが掲載されていましたが、そしてこのご覧の作品は、坂本が描きなおしたといわれているそうですが、
この人参の赤さを見る時、やはり坂本にどこか鈍さを感じてしまうのは、私だけでしょうか?
作品や画家への思いは、年々変化していくものであるとこの頃つくづくと感じます。
そして、坂本が30歳時に述べたように、その変化を否定しないことも自己の消滅への第一歩であるように今は感じています。