つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

2020/07/26 京都の空と梅原龍三郎

2020年07月29日 | 梅原龍三郎
京都に赴任中の私の弟が、鴨川の夕空の写真を送ってくれました。(7月26日)

一緒に映っている自転車は弟のものです。空があまりにも綺麗なので、自転車に乗って鴨川に出掛けたようです。


東北の震災の際に東京にいた弟は、帰宅困難になり、歩いて自宅に帰りました。
それを機にラン🏃‍♀️やバイク🚴‍♀️、水泳の練習に励むようになり、とうとうトライアスロンの大会に出場するようにまでなりました。

出張の多い弟が去年はベトナムやハワイにまで出掛ける予定だと聞きましたので、
半分冗談で。。ホノルルのワイキキビーチにあるピンクのホテル、ロイヤルハワイアンの画像が撮れたら送ってほしいとお願いをしました。

すると、弟は仕事の合間をぬい、ワイキキビーチを走り、海に入ってこんな画像を送ってくれたのです。

こちらがハワイの動画です

お分かりになりますでしょうか?





ピンクのホテル、ロイヤルハワイアンは梅原龍三郎の定宿でした。




そして、このホテルのベランダからダイヤモンドヘッドを描いたのが、こちらの作品になります。






この作品が制作された1971年にハワイを梅原と一緒に訪れた女優の高峰秀子さんの著書に
「蛇の話」というタイトルの章があります。

梅原は京都の染め呉服業を営む家に生まれ、(仮縫いをした絹の白布地に職人達が下絵を描き、染め屋にまわす商売)
多勢の職人や奉公人が働いている裕福な家庭で育ちました。
父親はやんちゃな龍三郎が何をしても怒ったことはなくただただ甘い父親だったそうです。

梅原家には大きな松の木があって、ある日その松の木に太い蛇がぶら下がっているのをみた龍三郎は、
早速短刀を持ち出して書生を呼び、「この短刀であの蛇を殺せ!」と命じました。
書生はその通り、蛇を斬り殺しましたが、後でそのことを知った家人が大騒ぎをし、その書生は即刻首になってしまったそうです。
蛇はその家の主とされ、粗末に扱ってはいけないと信じられていたのです。

「その書生は、僕に命じられたとは言わなかったんだね。黙って出て行ったらしい。
僕もあまりに騒ぎが大きいので、僕が殺せと言ったのだということを言いそびれて、そのままになってしまった。僕は卑怯だった。
その書生はどこへ行ってしまったかな?僕より年上だったから、或いはもう死んだかもしれない。あの書生には全く悪いことをしてしまったよ。僕が卑怯だった・・・」梅原は晩年、何度もこの話を高峰秀子さんに話されたと書かれています。


高嶺さんは、「一人ごとのように、ゆっくりこの話をする時の梅原先生の表情は、こよなく優しくて、素直に見えて
私は好きだった」と文を終えられています。

晩年の梅原の作品には、梅原が最後に向かった世界が色濃く表現されているように感じます。

それは、まさに、広い空、優しい波音、そして、多少ヤンチャでも、卑怯を恥とする素直で清らかな心を
求める世界であったと思えます。











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突然に見え始めるのですね。

2020年07月25日 | 小杉放菴
「描けば描くほど思い出が思い出を呼んで新しいイメージが湧いてくる」はシベリアシリーズを生んだ香月泰男の言葉ですが、
同じように、「絵を見れば見るほど、新しい物が見えてくる」ということが、鑑賞者にも経験されることだろうと思えます。




見えてくるというのは、ただ「ああ、ここに木が描かれているのかぁ」とか「この赤には気づかなかったな」ということではなく
自分の人生や自然・宇宙の成り立ちに「気づく」ということだろうと思います。

小杉放庵のこの絵を佐橋はずっと褒め続けていました。

色紙ほどの小さな作品。確かに放庵らしくうまいなぁと思っていましたが、「何がそれ程までに良い?」と半分わかったふりをしていたのですね。

けれど、ふと見えてきました。絵の全体が。





私をここにおいてみたのです。(緑の矢印の場所)

すると突然、滝や川を流れる水の音、木々の揺れる姿、そして自分のいる場所の高さまで実感されました。

トリックアートなどと呼ばれる物ではありません。

放庵が紙と墨と筆に込めた「創造と美意識と努力」そのものです。

そして、人は人生において、自分をどこに置いて、何を眺め、何を楽しんで暮らすか?ということへの
放庵の示唆だろうと思えます。

この感染問題の決着はさて、どこにあるのでしょうか?

これから私たちは、新しいワクチンや薬の発見で真に「命への安心」を得ることができるのでしょうか?

一度、疑ってしまったものへの信用。

それを取り戻すのは、ただひたすらに自然の大きさ、美しさにひれ伏すこと、

そして「今」生きている自分の命を清く、明るく深く愛すること。

それだけしかないのだと教えてくれているようです。




独坐幽篁裏
弾琴復長潚
深林人不知
明月来相照

ただ一人奥深い竹藪に座り
琴をひいたり、詩を吟じたりしている。
奥深い竹林は人に知られる事もなく
明るく輝く月が私を照らしていてくれる。

王維(中国盛唐時代の文人) 「竹里館詩」より



池大雅 小杉放庵 共に「竹裏館」という作品の中に記した詩です。

放庵の新しい作品も入手いたしました。
順にご紹介申し上げて、夢であった放庵展の開催の準備を進めたいと思っています。









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駒井哲郎 銅版画 

2020年07月21日 | 駒井哲郎


駒井作品を入手致しました。

中央に膨らみがあるかのように感じられる不思議な画面です。
銅版画であるのに、細やかな温かみと優しさを感じられる作品。

駒井はクレーやルドンに強い影響を受けたと聞きます。



駒井哲郎 銅版画  1969年 「ある風景」 15×9.5㎝

お伽話の世界に出てくるような小さな、かわいい版画です。



駒井哲郎

1920年東京生まれ。
1935年西田武雄に銅版画を学び始める。
1942年東京美術学校卒業。
1950年春陽会賞、翌年第1回サンパウロ・ビエンナ-レで受賞。木版の棟方志功とともにいち早く世界の舞台で高い評価を獲得し、戦後の美術界に鮮烈なデビューを飾る。
1953年資生堂画廊で初個展。
1954年渡仏。
1956年南画廊の開廊展、駒井哲郎展。
1972年東京芸術大学教授。銅版画のパイオニアとして大きな足跡を残す。
1976年永逝(享年56)。

銅版画の詩人と謳われた駒井先生は15歳の少年時代から56歳で亡くなるまで銅版画一筋の生涯でした。名作『束の間の幻影』はじめ、心にしみるエッチング作品を多数残し、長谷川潔、池田満寿夫とともに銅版画の魅力を人々に知らしめた功績は大きなものがあります。



束の間の幻影
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また買ってしまった。。

2020年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
私どもの店舗は、名古屋市東区泉2丁目にある高岳院ビルの一階にございます。

高岳院(コウガクイン)は、最寄りの駅「高岳 タカオカ」の地名の元となった、徳川家康8人目のお子さんを
祀られている大変歴史ある寺院です。




当店のエントランスからお進みいただきますと奥にご覧いただけます小さなお庭は、私どもの大家さんでいらっしゃる高岳院さんに
続くお庭で、私たちにとってはまさに「借景」になります。


このお庭をどのように利用させていただこうか?この店の設計を2人で考えるとき、色々と悩みましたが、
少し天井が低く、作品を展示させていただくのは不便なので結局、「図書室にさせていただこう」という事になりました。












この店にお引越しをしてきたときは、大工さんに作っていただいたこの本棚はまだ本でいっぱいではなかったのです。
少し余裕がありました。

が。。

この五年半の間に、あっという間に図書が増え、この本棚に入りきらず、
別の倉庫にしまわなければならない画集も沢山出てきてしまいました。

何冊かある図書を整理したり、並べ替えをして今までなんとかごまかして参りましたが
いよいよ「真に満杯」の時を迎えそうです。

それなのに





また買ってしまって。。どうしましょう?

そろそろ、根本的な整理が必要かもしれません。

ちょっと憂鬱ですけれど😅







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山本丘人 軸 雨月

2020年07月11日 | 山本丘人
新しく入手致しました山本丘人のお軸作品をご紹介いたします。

「雨月」

お軸の中央部が明るく見えるのはスポットが当たっている為ですが、よくご覧頂くとその上に月が描かれているのがお分かりいただけるかと思います。

画像にはなかなか映らないと思いご紹介を避けておりましたが、今回は全体の雰囲気がよく出ているように感じられます。




暗くなりますが、作品画面はこの内容です。↓↓





放菴、正平のお話の続きからさせていただきますと、丘人はこの画家達よりももっと情緒的であると言えるように思います。

仏教に「両忘」という言葉があります。「二元的な物の見方を捨てよ」と、簡単に言えばそういう事だと思えますが、この両忘の考え方は先ほどの老子の考え方に近いようでいて少し遠い。。私はそう思っています。

丘人は、どちらかというと、老子寄りでなく、より仏教寄り。
「無」を感じながらもその上で、「やはり絵は心だ」そう言い切る「つっぱり!」「繊細さ」「人間への愛」のある画家だったように思えるのです。

先日丘人作品を初めてお求めくださったお客様が、こんなご感想をくださいました。

和室で、山本丘人の軸を眺めていると ついつい熟睡してしまう事が有りました。 
落ち着きのある良い作品です。山本丘人のファンになりました!
 
短いご感想のなかに、丘人作品の本質を垣間見ることができるようです。


「雨月」は印譜などから、昭和20年前半、画家47~8歳の作品かと想像しています。
この作品は私共の尊敬する先輩画商からお譲りいただきましたが、先日遊びにお寄りくださったこの方に
佐橋が「やっぱりこの丘人、いいですよねぇ」と言うと
「高山が一生かかって辿り着いたところに、丘人はこの辺りでもう着いちゃっているからね」とおっしゃいました。
高山も丘人も松岡映丘のお弟子さんですね。


両忘。

「絵集め」は、
絵を上手い⇔下手、綺麗⇔汚い、高い⇔安い 
で見ていると突然つまらなくってしまうお遊びです。


では、どのように?

さて、そこが難しい(/_;)



「雨月」は本来旧暦5月(現在の5月下旬〜7月上旬)の異称です。満月が雨雲で見えない状態のことを言います。

この梅雨の時期に、作品が静かに美しく見えるのは、丘人の心は自由で、何の決めつけもないからだと感じます。








山本丘人 軸 「雨月」 絹本・彩色 共箱 
55.2×43.2㎝  ☆


◇   ~30万円
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コメント (2)
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