つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

撞木カフェさん

2024年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
記事がすべて後手後手にまわるのが私のブログの情けないところです。

先日の日曜日には当店にほど近い名古屋の文化施設「撞木館」内のSHUMOKU
CAFEさんにお邪魔して参りました。こちらは弥栄画廊さんのご子息が運営されていらっしゃるギャラリーカフェです。

この日は「お茶会」が催されて、なんと!陶芸作家の加藤高広さんがご自身の作品に自らお茶をたててくださり、テーブル席で気楽に賞味させていただくことができました。

お菓子は、名古屋の亀広良さんの生菓子。

が、私は私にお出しくださったお茶碗やお菓子を写真に撮ることを忘れてしまいましたので、こちらでご紹介することができません( ;∀;)

とても美味しかったのに、とても良い手触りだったのに。。

また何か月かに一度この企画を実現してくださると思うので、その時には前もって皆様にもお知らせいたしますね。

普段はコーヒーや紅茶、ジュースやデザートなど質の良いものを提供されていらっしゃいます。よろしかったら一度お出かけください。









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裏庭の椿

2024年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
椿はつぼみをつけるまでは楚々として上品な姿を保っていますが、ある時期を迎えると一斉に開花をはじめ、驚くような数の花をつけ、上品の姿はおろか、なぜか少しグロテスクな印象を見る者に与えます。

そして、咲いた花はやがて生気を失い、色あせるまでギリギリ樹木にぶら下がり、やがてまたほぼ一斉に落下します。

寺田寅彦は「藤の実」という作品で、5月に咲くあの美しい藤の花が、秋になると驚くほどの威力でそのさやから実を飛ばすこと、しかもそれもある時期に突然一斉に行われることに触れ、椿の落下、銀杏の落葉、しいては山火事などの災害、人のケガや病気の亢進などにも「潮時」というものがあるのではないかと述べています。

物理学者であった寺田が、随筆や俳句にもすぐれた作品を残したのは有名ですが、この「藤の実」を読むとき、「近代日本」の思想というものを強く感じ、何か少しホッとするような気持になります。

人が自然の中にいた、自然の一部であるという実感を持っていたのだと思います。

明日店の図書室に並ぶいくつかの画集を開けば、近代日本の画家たちの誰かが、今私が自宅の裏庭の一本の椿の木に感じている「気配」を、見事に表現してくれているでしょう。






例えば徳岡神泉の椿など。

この共感、信頼感こそ近代日本絵画の素晴らしさだと思っています。

いよいよ三月も最後の週になりました。今週もどうぞよろしくお願い致します。




藤の実の実験動画↓
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どこから?

2024年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
著作集の1は洋画論 現代日本 と題されています。

現代?というところに時代を感じますが、1巻に掲載されている作家、選ばれている画家は私どもがすでに「近代」の範疇に入れ、その作品を重視していますので、大変興味深く感じました。

掲載作家は

金山平三、岡鹿之助、山口薫、脇田和、森芳雄、牛島憲之、岡田謙三、児島善三郎、小絲源太郎、林武、海老原喜之助、長谷川三郎、土田文雄、金山康喜、梅原龍三郎


著作集の2は洋画論 近代日本 と題されています。
こちらはまさに「近代」を代表する画家たちの評論です。

浅井忠、黒田清輝、岡田三郎助、藤島武二、坂本繁二郎、中村彜、佐伯祐三、萬鉄五郎、国吉康雄、藤田嗣治、前田寛治、山下新太郎、安井曽太郎、熊谷守一

さて、わたしはどこから?どの作家についての文章から読み始めたでしょうか?

クイズというよりみなさまならどこから読み始めたいとお思いになりますか?

著作集に掲載の画家の中からお好きな一人をお教えください。
理由とかそういうものはいりません。また鳥海青児展についてのご感想もお寄せください。

萬鉄五郎、鳥海展はブログの画像と違って実物は明るかった。

藤田嗣治、鳥海展には出かけられずに残念でした。ノートルダムを見てみたかった。

坂本繁二郎、鳥海青児という名前を初めて知りました。

というような簡単なコメントで構いません。

お彼岸で気持ちがまた少し凹んでしまっていますので、コメントをいただくと助かります(^^)

よろしくお願い致します。








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今泉篤男の岡鹿之助評 (昭和43年3月 大阪心斎橋大丸 岡鹿之助展図録より)

2024年03月19日 | 絵画鑑賞
岡鹿之助の作品は、リズムの芸術であり、節度の芸術であります。
奔放とか激越とかという感情とは無縁の仕事です。しかし、奔放でなくとも、そこに精神の飛翔はあるのです。激越でなくとも、人々の心情に高らかに響く鮮烈さはあるのです。
岡鹿之助の絵を見る人は、そこに何か独特の澄明な空間をかんじないでしょうか。それは、現実の空間よりは遥かに透明度の高い空間です。

中略

人々は、そこに岡鹿之助の一種の理想主義を読み取るでしょうか。私の考えでは彼の透明な空間は理想主義というような観念に支配されている空間では絶対にないと思うのです。この画家は、観念の捕虜になるにはあまりにも謙虚であり、理想のしもべたるにはあまりにも芸術家であります。彼の透明空間は、自分で狙っている表情というようなものではなく、彼の精神のいわば体臭のようにおのずから発散し、醸し出されているものなのです。ですから、作者自身にとっては、はっきりと気がつかないようなものであって、それだからこそ人々の心を強くそこに誘うのかもしれません。

終戦後間もなくの頃、画壇のある精神主義的な一人の長老が、自分は描く紙がなければ大空に眼でデッサンする、と若い画家たちの前で訓戒した時、岡鹿之助は、はっきりとそういう見解に対する不満を表明したのを私は憶えています。彼は、観念の遊び、そして自分では遊びなどとは夢にも思っていないようなこういう考え方に何の興味も示しません。むしろ、軽蔑しているようにさえ思われます。それほど彼は観念の捕虜になることを嫌っているのです。彼によれば、画家は紙の上に、画布の上に、何かの上に痕跡を示すことによってのみ本当のイメージが成立するという考えなのです。それを当然のことと岡鹿之助は考えているのですから、そう易々と理想主義の観念に縛られるわけにはいきません。

ですから、彼の画面の透明空間は、彼の理想主義の産物ではなく、つまりこしらえものの透明空間ではないということです。
さればこそ、岡鹿之助の作品に、微妙で俊傑な「詩」が生まれるのだ。と私は言いたいのです。しかし、ここで私のいう「詩」という一語を抒情の粉飾をつけないで受け取っていただきたい。


鳥海青児展に副題をつけたいと考えたとき、「抒情」という言葉をつかうか?「浪漫」を使うか?少し悩みました。普通に考えれば、鳥海作品には、抒情が似合い、浪漫は遠いイメージだと思いましたが、抒情にすると何か陳腐なイメージになってしまうように思いました。

結局、鳥海青児も岡鹿之助も、自分の手によって生み出されるものだけを信じていたということだろうと思います。そして、二人はそれぞれに上等な「詩」を生んだのだと思います。

ただ少し、鳥海は絵画的であった。岡鹿之助は音楽的であった。二人の違いはそんなところにあるという印象を持っています。







コメント (2)
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出会い

2024年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
この一か月は久しぶりに「お勉強」をしました。

勿論鳥海のことでしたが、鳥海のことを調べていると「岡鹿之助」や「海老原喜之助」の文字をよく目にすることがありました。

同世代ということのほかに、この作家たちの作風はいずれも個性的、魅力的で私のなかでなかなか同じ「括り」にすることができません。

勉強することは山のようにあるなぁ~と思いながら~






ときどき休日用に自宅に持ち帰る本に、先日は岡鹿之助の古い図録を選びました。若い時から「岡鹿」は憧れの画家です。






最近は画家自身のお姿を写真で見るだけで、なんだかその作品の実力のほどがわかるような気になっています。

この図録はデパートで開かれた展覧会の為に編纂されたものですが、この画家の写真とともに、そこに寄せられた文章に大変なショックを受けました。



「ご覧なさい」ではじまり、全てに隙のない、しかも簡潔な文章。
また内容が大変深く、豊かで、私は驚きと感動で涙を流しながらこの文章を読みました。

今泉篤男さん。

多分皆様はよくご存じのお名前だと思いますが、お恥ずかしながら私はこの方の文章に今まで触れた記憶がありません。

この図録の岡鹿之助に対する文章、ほんの2,3ページの文章に、大変感動して、感動というよりとてもショックを受けました。

私がコツコツとやりたいと思っていたことをこんなに見事に、作家の生い立ちやその技法、美術史的意味を専門的に網羅しながら廣く、深く、そして何より美しい文章を書かれる方がいらしたのだとこの一、二週間を呆然と過ごしました。

言い訳になりますが、いつもに増して、ブログを書く手が止まりました。
そして、書いても心ここにあらずの文章になりました。



何もこんな時期に更にズタボロにされなくても~( ノД`)

いや待てよ。。この文章に感動できる私がここにいるぞ。
こんな高みに自分をもっていけるなんて端から思っていないはず。身の程は知っている。。



10日ほどはかかりましたが、ブログに関しては何とか立て直しをしたいと思い始めました。

そして、逆に味方につけよう!目標にしよう!と




早速著作集を取り寄せました😅




佐橋の居ない辛さにこの店を畳もうと常に考えながら、「知りたい」という思いを捨てきれず、鳥海青児作品を弥栄さんに並べていただいたり、本棚に貯まった美術年鑑を束ねて捨て、今ここに新たな著作集を並べてしまう自分。

薄々知っていた自分の卑怯さにこの十ヶ月間、私は嫌というほど向き合わされています。

そして、その卑怯を佐橋に今更責められているのかな?と思うと、それは私だけが受け止めることで、泣いてばかりも居られないと思えるのです。
真に支離滅裂とはこの事です。




さて、この著作集のどの画家に対する評論から私は読み始めたでしょうか?

掲載の作家名をズラリと並べてみなさまへのクイズにするのも面白いかもしれません。


過去に図書室の本を万引きされかけた事もございますので、ちょっと敏感になっておりましたが、お通いくださるお客様には本を貸し出させていただく事も出来ます。
よろしければお声掛けください。

お彼岸も桜も、少し気重ではありますが、皆様と同じように諸々を抱えながらまた明日から仕事をさせていただきたいと思います。

みなさま、よろしければお遊びにお立ち寄りくださいますようお願い致しま
す。





















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