「光る君へ」に影響されまして、『あさきゆめみし』をまた読もうと思って、ひっぱり出してきました。
これは全く陽の当たらない場所に置いてあったにもかかわらず、紙の劣化が進んでしまっている😢
私が『あさきゆめみし』に出会ったのは連載もかなり進んでからと記憶しています。
コミックスの奥付けを見たら、第9巻からは初版を買っていました。
第1〜8巻は90年あたりに購入していて、それでもゆうに30年超えです。
でも『あさきゆめみし』に関しては一度も手放そうと思ったことはありません。
「光る君へ」のおかげ?で、『源氏物語』の解説本の出版がブームですね~
ということで、2冊だけ借りてきて💦さらっと読んでみました。
確実に言えることは、『源氏物語』の読み方が変わってきたということ。
光源氏よりも女性たちの心理を深く探ろうとしています。
そういう読み方をすると、もしかして別人が書いた?と思われたりもする宇治十帖は確かに紫式部の手によるものと確信できるようです。
本を読んで、「そうか~そういう捉え方があるのか〜」と唸りましたもの。
『あさきゆめみし』を読み直そうと思ったのも、はたして今のワタシはどんな感じ方をするのかな?という興味もあったからなのでした。
で、『あさきゆめみし』なのですが、読みはじめてすぐ、これは間違いなく名作、大傑作だと再確認出来たのでした。
まだ宇治十帖の分は読めてはいないのですが、「光源氏と藤壺の宮の愛は宿命であった」というテーマを第1巻で提示して、そこから全てのエピソードが広がっていくように、読者に印象づけていると思いました。
光源氏が藤壺の宮に「帝を愛していますか?」と問い、「おしたいしております」と返ってくると「では愛してはいないのですね?帝もあなた自身を見てはおられない。帝はあなたに私の母の面影を重ねている」と畳みかけるように藤壺の宮に断言する。(言外に、あなたが愛しているのは私=光源氏ですね、という含みを持たせている)
これを第四話目にバーンと持ってくる。
はからずも義理の親子になってしまったふたりの許されない愛。
義理の親子といっても藤壺の宮は5歳年上。正妻の葵の上が4歳年上なのだから、不自然ではない関係。
桐壺帝は藤壺の宮を桐壺の更衣の形代とし、光源氏は紫の上を藤壺の宮の形代とする。それでも満たされない光源氏は女三の宮に藤壺の宮の面影を求めようとして降嫁を受け入れる。
ラビリンスですね。
紫の上は光源氏が見ているのは自分でないことにうすうす気づく。それでも自分は光源氏の一の人(正妻)という誇りがあったので精神は保たれていたが、女三の宮(皇女)の降嫁は正妻の地位を奪われるということ。しかも紫の上には後見してくれる親族がいないので、逃げ場もない。出家も光源氏が許さない。せいぜい幸せな少女時代を過ごした二条院に戻ることくらいしかできない。
花散里や明石の上は、初めから光源氏の正妻を望む立場ではなかったので、女三の宮の降嫁は他人事として見ていられる。
紫の上の哀れが身に沁みますね。
というふうに、『あさきゆめみし』を読んでいると、少女漫画の王道的読み方になり、最近流行りの「女君たちの心理を深掘りして、そこから紫式部の真意を探り当てる」という読み方にはならないのでした。
それでは、女君たちの意志や立場はどうなの?ないがしろにされてばかりでは?!という意見もありましょう。
しかし、そこはさすがに大和和紀先生。
こうなったのはこういうのっぴきならない事情があったから!という明確な理由づけをしてあって、男君の身勝手だけが原因ではない、それは宿命であったり人間の業であったり……と読者にそれとなく知らせています。
しかしそうは言っても前回(たぶん10年以上前)読んだときに比べると、巻を追うごとに光源氏の身勝手さ(最上流の平安貴族としては常識の範疇なのだと思うけれど……)や独りよがりにやりきれない気持ちになったのでした。
当時の人々の結婚や性愛に対する考え方、慣習は今とはまるで違うのだからと、無理に現代的な解釈をせずに読んでいたのが少し前までだったと思うのです。
しかし、いくら平安時代の女人とて今の私達と同じような感情を持っていたはずで、それを押し殺せざるをえなかったのではないか?
女人たちの押し殺した感情を巧みに見え隠れさせながら紫式部が著したのが『源氏物語』で、その本音を探りながら読むようになったのが最近のことなのでしょうか?(あくまでも個人的な意見です)
これは全く陽の当たらない場所に置いてあったにもかかわらず、紙の劣化が進んでしまっている😢
私が『あさきゆめみし』に出会ったのは連載もかなり進んでからと記憶しています。
コミックスの奥付けを見たら、第9巻からは初版を買っていました。
第1〜8巻は90年あたりに購入していて、それでもゆうに30年超えです。
でも『あさきゆめみし』に関しては一度も手放そうと思ったことはありません。
「光る君へ」のおかげ?で、『源氏物語』の解説本の出版がブームですね~
ということで、2冊だけ借りてきて💦さらっと読んでみました。
確実に言えることは、『源氏物語』の読み方が変わってきたということ。
光源氏よりも女性たちの心理を深く探ろうとしています。
そういう読み方をすると、もしかして別人が書いた?と思われたりもする宇治十帖は確かに紫式部の手によるものと確信できるようです。
本を読んで、「そうか~そういう捉え方があるのか〜」と唸りましたもの。
『あさきゆめみし』を読み直そうと思ったのも、はたして今のワタシはどんな感じ方をするのかな?という興味もあったからなのでした。
で、『あさきゆめみし』なのですが、読みはじめてすぐ、これは間違いなく名作、大傑作だと再確認出来たのでした。
まだ宇治十帖の分は読めてはいないのですが、「光源氏と藤壺の宮の愛は宿命であった」というテーマを第1巻で提示して、そこから全てのエピソードが広がっていくように、読者に印象づけていると思いました。
光源氏が藤壺の宮に「帝を愛していますか?」と問い、「おしたいしております」と返ってくると「では愛してはいないのですね?帝もあなた自身を見てはおられない。帝はあなたに私の母の面影を重ねている」と畳みかけるように藤壺の宮に断言する。(言外に、あなたが愛しているのは私=光源氏ですね、という含みを持たせている)
これを第四話目にバーンと持ってくる。
はからずも義理の親子になってしまったふたりの許されない愛。
義理の親子といっても藤壺の宮は5歳年上。正妻の葵の上が4歳年上なのだから、不自然ではない関係。
桐壺帝は藤壺の宮を桐壺の更衣の形代とし、光源氏は紫の上を藤壺の宮の形代とする。それでも満たされない光源氏は女三の宮に藤壺の宮の面影を求めようとして降嫁を受け入れる。
ラビリンスですね。
紫の上は光源氏が見ているのは自分でないことにうすうす気づく。それでも自分は光源氏の一の人(正妻)という誇りがあったので精神は保たれていたが、女三の宮(皇女)の降嫁は正妻の地位を奪われるということ。しかも紫の上には後見してくれる親族がいないので、逃げ場もない。出家も光源氏が許さない。せいぜい幸せな少女時代を過ごした二条院に戻ることくらいしかできない。
花散里や明石の上は、初めから光源氏の正妻を望む立場ではなかったので、女三の宮の降嫁は他人事として見ていられる。
紫の上の哀れが身に沁みますね。
というふうに、『あさきゆめみし』を読んでいると、少女漫画の王道的読み方になり、最近流行りの「女君たちの心理を深掘りして、そこから紫式部の真意を探り当てる」という読み方にはならないのでした。
それでは、女君たちの意志や立場はどうなの?ないがしろにされてばかりでは?!という意見もありましょう。
しかし、そこはさすがに大和和紀先生。
こうなったのはこういうのっぴきならない事情があったから!という明確な理由づけをしてあって、男君の身勝手だけが原因ではない、それは宿命であったり人間の業であったり……と読者にそれとなく知らせています。
しかしそうは言っても前回(たぶん10年以上前)読んだときに比べると、巻を追うごとに光源氏の身勝手さ(最上流の平安貴族としては常識の範疇なのだと思うけれど……)や独りよがりにやりきれない気持ちになったのでした。
当時の人々の結婚や性愛に対する考え方、慣習は今とはまるで違うのだからと、無理に現代的な解釈をせずに読んでいたのが少し前までだったと思うのです。
しかし、いくら平安時代の女人とて今の私達と同じような感情を持っていたはずで、それを押し殺せざるをえなかったのではないか?
女人たちの押し殺した感情を巧みに見え隠れさせながら紫式部が著したのが『源氏物語』で、その本音を探りながら読むようになったのが最近のことなのでしょうか?(あくまでも個人的な意見です)