お花畑脳全開の第二回でございます。失笑が嘲笑に変わっていくような予感……
《第一話あらすじ》
オスカルは7月14日.、バスティーユで一命を取り留めていた。フローリアン・F・ド・ジェローデルが虫の息のオスカルを抱きかかえ、ムードン城に向かった。
そこはルイ・ジョゼフの亡くなった場所であり、今は国王夫妻が滞在していた。国王夫妻と再会をはたしたオスカルは、フローリアンと結婚する意志を固め、フローリアンを狂喜させる。国王夫妻の厚遇に接し穏やかな気持ちになったフローリアンに驚愕の事実が告げられる。
※なお、本作品は、原作者さま、出版社様とは無関係でございます。
②お聞きになった❔お聞きになった❔❗
オスカルをやわらかな寝台に横たえ、フローリアンはしばし中座した。
「オスカル様は身ごもっておられます」
医師から発せられたひと言にフローリアンは一瞬言葉を失った。
「それで、それでお腹の子は?」
「奇跡です。生きておられます。」
「いつ生まれますか?」
息せき切って尋ねるフローリアンに医師は難しい顔を向ける。
「オスカル様のお身体がかなり弱っておられますので……それはなんとも申し上げられません……」
「聞いたのだろう?」
部屋に戻ったフローリアンにオスカルがはなしかけた。
「もちろんお前の子だ。産みたい。産ませてくれ。何でもいうことはきくから」
たちまちオスカルの顔が涙で濡れ、乾く間もない。
「私も子供の顔はなんとしても見たいものです。どのような協力も惜しみません。」
春頃には気づいていた。ただ、わたしよりもばあやが先だったが。
去年の秋の終わりにフローリアンが婚約者候補として足繁く邸に出入りするようになった。
ただの訪問客ではないので、自分の部屋に招き入れ、ふたりきりになったことは一度や二度ではない。
近衛隊の様子を聞いたり、最近の宮廷の様子を聞いたり、話題に困って手持ち無沙汰にしていたらヴァイオリンを弾いて欲しいといわれた。
しぶしぶヴァイオリンを手に取り、調弦もそこそこにモーツァルトの小品を弾いてみた。
気持ち悪い音程だったが彼のことだから無意味に褒めそやすのだろうと思っていたら、部屋のすみにあったクラヴサンの蓋を開けると
「もっときちんとチューニングしなくては」とAのキーを叩いた。
なのでチューニングし直してまた同じ曲を弾いてみた。
曲が中盤に差し掛かったところで、フローリアンがクラヴサンで伴奏をし始めた。予想外のことで、テンポが狂う。
「そのままお続けください。」
と、彼は淡々と伴奏を弾き続けた。
これは楽しかった。
まだ幼かった頃は小さなヴァイオリンを鳴らすと姉君たちが競って相手をしてくれたがこの邸から姉君たちがいなくなってずいぶん経ってしまった。
「クラヴサンが上手いのだな」
「貴族にとっては当たり前の嗜みです。あなただってこのくらいは弾けるでしょう」
「それはそうだが……」
「私は田舎育ちですがそれくらいの嗜みはございます」
なぜかムキになってフローリアンが言葉を重ねた。
2人で合奏する事が加わり、そうやってフローリアンとふたりだけの時間が増えていった。
楽器の音が漏れるので邸の者たちも安心していたのだろう。
一度しんとした部屋に侍女が菓子を運んできたことがあったが、彼はクラヴサンの前に、わたしはテーブルの上に譜面を広げて熱心に新曲の譜読みをしていたので侍女は不審とも思わず菓子を置いて立ち去った。
ある夕刻に「そろそろ冬ですね。今日は風が強くて寒い」と言いながら、フローリアンが訪ねてきたことがあった。彼に暖炉の前の長椅子をすすめ、彼の、冷えた皮手袋を受け取った瞬間に、身体ごと彼に引き寄せられた。
「なっ❗何をする」
「声を上げないで、マドモアゼル。くちびるを…くちびるだけ私にください。」
フローリアンが訪ねてくると挨拶のようにくちびるを交わし、合奏して、茶を飲んだり菓子を食べたりする。そういう時期が少し続いた。
やがて、フローリアンだけがクラヴサンに向かっているのをみているとわたしも無性にクラヴサンを弾きたくなった。
姉君が残していったクラヴサンがどこかの部屋にあるはずなので、それを私の部屋に運ばせようかとも考えたが、それよりは連弾をしようと思いついた。
侍女を呼びパリの楽譜屋への使いを言いつける。「モーツァルトの連弾曲集を持ってきてほしい」という簡単な手紙も持たせた。侍女たちはパリへの使いを喜ぶ。うちの馬車を出してやるので歩かなくてよいし、厨房や同僚からの頼まれもの等を買うためについでに市場や商店に寄るので良い気晴らしになるのだ。さらにわたしは使いを言いつけた侍女には櫛とかリボンとか小さい道具箱とかのちょっとした小間物を買える程度の小遣いを渡す。これは確か一番上のオルタンス姉さまがなさっていたことだ。「お金が全てではないけれど、お金で買える幸せもあるのよ。」とあのとき姉君はおっしゃっていた。あの頃のわたしはまだ幼くてその意味がよくわからなくて怪訝な顔をしたはずだ。
朝、スープを一皿食べられるかどうかの心配をしながら生活をしている平民がパリには多いのだと知らされてからは、余ったパンを面会にきた家族に渡している衛兵隊員が多いと知ってからは、たとえ些少な金額でもその者が僅かでもホッとできるのであればと今でも小遣いを渡し続けている。
そしてもしフローリアンに知れたら
「それは単なる施しです。相手を甘やかすだけです。あなたは自分の満足のために行なっているにすぎません。そういうことはおやめなさい。」
と言われることもわかっていた。
とにかく、モーツァルトの連弾曲集を手に入れ、わたしはフローリアンを待った。
「今日は何を弾いてくださいますか?」
フローリアンがヴァイオリンに視線を落としながら問う。
「最近はワンパターンだし、連弾でもどうだ?楽譜を用意したぞ」
フローリアンに楽譜を手渡した。
「これは願ってもないことです。モーツァルトですか?あなたならバッハと思いましたが」
適当に選んだ曲をふたりで弾いてみる。
もともとの椅子はふたりですわるには小さ過ぎたので、「これを」とフローリアンが部屋にあった椅子を運んできた。
「すまない。間違ってばかりだ」
「いいえ、とんでもない。この時間が宝物なのですから」
途中でふたりの腕が交差する部分に差し掛かった。タイミングが悪くて、わたしの腕が彼の腕にぶつかった。
彼の腕がわたしの腕を掴んだ。
そして身体ごと引き寄せられ、抱きしめられてくちびるを奪われる。
そうだ…わたしは誰かに縋りたかったのだ。わたしをつつんでくれる誰かに。
やがて…フローリアンに抱き上げられて寝椅子に下ろされるようになるまでさして時間はかからなかった……
身体を重ねたのは3回ほどだったろうか?子を授かるとは思いもしなかった。
まずばあやが気がつき、周囲をうまく誤魔化してくれたので、邸の誰にも妊娠のことは知られずにすんだ。ばあやが倒れたのは間違いなく100%わたしのせいだ。
しかし、湯浴みの世話をしてくれる侍女には気づかれていたかもしれない。
酒もやめず、今まで通り馬に乗り、身体に悪いことばかりしている自覚はたっぷりとあったし、酒の飲み過ぎで血まで吐いて、母親失格の烙印を押されているのにわたしは日ごとに産みたい気持ちが高まっていった。それなのにわたしはわたしのために開かれた舞踏会をめちゃくちゃにして、フローリアンを遠ざけてしまった。フローリアンに包まれると安心する。世界が砂糖菓子で出来ているような気持ちになる。
そうではない❗
わたしは砂糖菓子の世界に安住してはいけないと思ったのだ。だから、思い切って近衛隊を辞めたのだ。
小さい頃、庭で育っている花に水をやったことはあっても、庭の奥の方の畑は見に行ったことがない。畑で採れたキャベツを山積みにして籠に入れて運んでくる侍女を馬上から見下ろして運ぶのを手伝ってやったことすら数えるほどしかない。林檎の木の下を通ったことがあっても、手を伸ばして赤い果実をもいでそのままかじったこともない。自分のために自分の手を汚したことがほとんどないのだ。それは間違っている。そんな世界がいつまでも続いて良い訳がない。フローリアンと結婚するということはそういう世界だけに住むことなのだ。
アンドレには申し訳ないことをした。
彼の眼が不自由でなかったら、あの夜にすべてわかっただろう。だって赤ん坊がわたしの腹を蹴るのだから。何人もの恋人を自慢する貴婦人たちをこれでもかというくらい見て、庶子らしい少年たちが小姓として宮殿を走りまわるのを見かけてモヤモヤした思いでいたのに、わたしは最低だ。
わたしはさかりのついた雌ではないか?
しかもわたしは夜の中でアンドレの子が欲しいと願い続けていたのだ。フローリアンとの子が育っているというのに。このどす黒い感情に私は打ちのめされ身震いした。
それでも正直に打ち明ければアンドレはわたしを受け入れてくれるだろう確信があった。
だが、それすらも私がアンドレの主人だからこそであって、人間としてわたしを許せるのかというとそれはまた別の話であり、許されたものではない。
ここまでなんとか腹の子を護れたのだ。だが、パリには出動したかった。
安穏とベルサイユにいてはあとから後悔が押し寄せてくる!それは確信だった。しかし、腹の子を何としても守り抜かなくては。
正直、もうダメだと思った。
フローリアンに抱かれた馬車の中で腹の中で動く我が子に気づいたときはもうこれ以上の奇跡はないと思ってわたしは泣き続けた。
私が打ち明けなかったので、フローリアンは私が傷の痛みに耐え兼ねて泣いているのだと思ったのだろう。ひたすら髪を撫で続けてくれた。
奇跡の連続だ。
一命を取り留めて、腹の子の命も護れた。
なんとしても産みたい。
わたしの命とひきかえになったとしても新しい生命をこの世に送り出したい。
できれば男の子を産みたい。
そのためにはわたしがもっと体力を取り戻さなくては!
フローリアンにすべて任せよう。
わたしよりも彼のほうがずっと世間というものを知っている。
8月になった。
わたしはまだ生きている。
アンドレが生きていたら今頃どうしていただろうと考える。
多分ふたりしてパリのうちの別邸にでもいるのではないか?
ばあややロザリーにも来てもらって。
だがそれでは私は何もせずに大きなお腹を抱えながら寝ているばかりで邸にいた頃より不自由で貧しくなるだろうが世話してもらうばかりで以前とあまり変わりがない日々を送っているに過ぎなかったのではないか?
わたしは貴族の暮らしから抜け出せないのだ。
生きていく力がないのだ。
そんなわたしでもアンドレは愛してくれるのだろうか❔
産まれる子は祝福されるのだろうか❔
結局わたしはひとりでは赤ん坊のごとく何もできないまま暮らすしかないのだ。
大口を叩いてはみたものの与えられた伯爵領がなかったら、日々の食事もままならないのだろう。
母上に会いたい
フローリアンと今度はバッハの曲を連弾したい。
8月になった。
国王一家は規律や秩序がまだ整わない国民衛兵たちに取り囲まれてベルサイユで暮らしている。
旧来の近衛兵も国王一家に付き従っているが、今や近衛の最高責任者となったフローリアンは南フランスの自邸からうごけないでいる。
そして密かに開かれる茶話会やサロンの集まりで貴婦人たちは囁き続けた。
「ねぇ、お聞きになった?オスカルが生きているんですって!」
「もちろんしっているわ!どうなさっているのかしら?」
「ジェローデル伯爵といっしょに南フランスで療養しているそうよ」
「そればかりではなくてよ。なんと彼女は身ごもっているそうよ」
「秋には生まれるのですって」
「なんと!それでは」
「フローリアンは振られたことになっているけれどれっきとした婚約者でしたのね」
「ジャルジェ家ではご夫人のジョルジェット様もご結婚からすぐのご出産でしたわね」
「あら?そんなことが」
「お若い方はご存じないでしょうけれど」
「ねぇ、お聞きになった?お聞きになった?❗オスカル様がね」
「いやぁ~わたしたちのオスカルさまが大きなお腹を抱えているなんて」
「お腹の大きなオスカル様なんてわたしたちのオスカル様ではないわ!」
(続く)
《第一話あらすじ》
オスカルは7月14日.、バスティーユで一命を取り留めていた。フローリアン・F・ド・ジェローデルが虫の息のオスカルを抱きかかえ、ムードン城に向かった。
そこはルイ・ジョゼフの亡くなった場所であり、今は国王夫妻が滞在していた。国王夫妻と再会をはたしたオスカルは、フローリアンと結婚する意志を固め、フローリアンを狂喜させる。国王夫妻の厚遇に接し穏やかな気持ちになったフローリアンに驚愕の事実が告げられる。
※なお、本作品は、原作者さま、出版社様とは無関係でございます。
②お聞きになった❔お聞きになった❔❗
オスカルをやわらかな寝台に横たえ、フローリアンはしばし中座した。
「オスカル様は身ごもっておられます」
医師から発せられたひと言にフローリアンは一瞬言葉を失った。
「それで、それでお腹の子は?」
「奇跡です。生きておられます。」
「いつ生まれますか?」
息せき切って尋ねるフローリアンに医師は難しい顔を向ける。
「オスカル様のお身体がかなり弱っておられますので……それはなんとも申し上げられません……」
「聞いたのだろう?」
部屋に戻ったフローリアンにオスカルがはなしかけた。
「もちろんお前の子だ。産みたい。産ませてくれ。何でもいうことはきくから」
たちまちオスカルの顔が涙で濡れ、乾く間もない。
「私も子供の顔はなんとしても見たいものです。どのような協力も惜しみません。」
春頃には気づいていた。ただ、わたしよりもばあやが先だったが。
去年の秋の終わりにフローリアンが婚約者候補として足繁く邸に出入りするようになった。
ただの訪問客ではないので、自分の部屋に招き入れ、ふたりきりになったことは一度や二度ではない。
近衛隊の様子を聞いたり、最近の宮廷の様子を聞いたり、話題に困って手持ち無沙汰にしていたらヴァイオリンを弾いて欲しいといわれた。
しぶしぶヴァイオリンを手に取り、調弦もそこそこにモーツァルトの小品を弾いてみた。
気持ち悪い音程だったが彼のことだから無意味に褒めそやすのだろうと思っていたら、部屋のすみにあったクラヴサンの蓋を開けると
「もっときちんとチューニングしなくては」とAのキーを叩いた。
なのでチューニングし直してまた同じ曲を弾いてみた。
曲が中盤に差し掛かったところで、フローリアンがクラヴサンで伴奏をし始めた。予想外のことで、テンポが狂う。
「そのままお続けください。」
と、彼は淡々と伴奏を弾き続けた。
これは楽しかった。
まだ幼かった頃は小さなヴァイオリンを鳴らすと姉君たちが競って相手をしてくれたがこの邸から姉君たちがいなくなってずいぶん経ってしまった。
「クラヴサンが上手いのだな」
「貴族にとっては当たり前の嗜みです。あなただってこのくらいは弾けるでしょう」
「それはそうだが……」
「私は田舎育ちですがそれくらいの嗜みはございます」
なぜかムキになってフローリアンが言葉を重ねた。
2人で合奏する事が加わり、そうやってフローリアンとふたりだけの時間が増えていった。
楽器の音が漏れるので邸の者たちも安心していたのだろう。
一度しんとした部屋に侍女が菓子を運んできたことがあったが、彼はクラヴサンの前に、わたしはテーブルの上に譜面を広げて熱心に新曲の譜読みをしていたので侍女は不審とも思わず菓子を置いて立ち去った。
ある夕刻に「そろそろ冬ですね。今日は風が強くて寒い」と言いながら、フローリアンが訪ねてきたことがあった。彼に暖炉の前の長椅子をすすめ、彼の、冷えた皮手袋を受け取った瞬間に、身体ごと彼に引き寄せられた。
「なっ❗何をする」
「声を上げないで、マドモアゼル。くちびるを…くちびるだけ私にください。」
フローリアンが訪ねてくると挨拶のようにくちびるを交わし、合奏して、茶を飲んだり菓子を食べたりする。そういう時期が少し続いた。
やがて、フローリアンだけがクラヴサンに向かっているのをみているとわたしも無性にクラヴサンを弾きたくなった。
姉君が残していったクラヴサンがどこかの部屋にあるはずなので、それを私の部屋に運ばせようかとも考えたが、それよりは連弾をしようと思いついた。
侍女を呼びパリの楽譜屋への使いを言いつける。「モーツァルトの連弾曲集を持ってきてほしい」という簡単な手紙も持たせた。侍女たちはパリへの使いを喜ぶ。うちの馬車を出してやるので歩かなくてよいし、厨房や同僚からの頼まれもの等を買うためについでに市場や商店に寄るので良い気晴らしになるのだ。さらにわたしは使いを言いつけた侍女には櫛とかリボンとか小さい道具箱とかのちょっとした小間物を買える程度の小遣いを渡す。これは確か一番上のオルタンス姉さまがなさっていたことだ。「お金が全てではないけれど、お金で買える幸せもあるのよ。」とあのとき姉君はおっしゃっていた。あの頃のわたしはまだ幼くてその意味がよくわからなくて怪訝な顔をしたはずだ。
朝、スープを一皿食べられるかどうかの心配をしながら生活をしている平民がパリには多いのだと知らされてからは、余ったパンを面会にきた家族に渡している衛兵隊員が多いと知ってからは、たとえ些少な金額でもその者が僅かでもホッとできるのであればと今でも小遣いを渡し続けている。
そしてもしフローリアンに知れたら
「それは単なる施しです。相手を甘やかすだけです。あなたは自分の満足のために行なっているにすぎません。そういうことはおやめなさい。」
と言われることもわかっていた。
とにかく、モーツァルトの連弾曲集を手に入れ、わたしはフローリアンを待った。
「今日は何を弾いてくださいますか?」
フローリアンがヴァイオリンに視線を落としながら問う。
「最近はワンパターンだし、連弾でもどうだ?楽譜を用意したぞ」
フローリアンに楽譜を手渡した。
「これは願ってもないことです。モーツァルトですか?あなたならバッハと思いましたが」
適当に選んだ曲をふたりで弾いてみる。
もともとの椅子はふたりですわるには小さ過ぎたので、「これを」とフローリアンが部屋にあった椅子を運んできた。
「すまない。間違ってばかりだ」
「いいえ、とんでもない。この時間が宝物なのですから」
途中でふたりの腕が交差する部分に差し掛かった。タイミングが悪くて、わたしの腕が彼の腕にぶつかった。
彼の腕がわたしの腕を掴んだ。
そして身体ごと引き寄せられ、抱きしめられてくちびるを奪われる。
そうだ…わたしは誰かに縋りたかったのだ。わたしをつつんでくれる誰かに。
やがて…フローリアンに抱き上げられて寝椅子に下ろされるようになるまでさして時間はかからなかった……
身体を重ねたのは3回ほどだったろうか?子を授かるとは思いもしなかった。
まずばあやが気がつき、周囲をうまく誤魔化してくれたので、邸の誰にも妊娠のことは知られずにすんだ。ばあやが倒れたのは間違いなく100%わたしのせいだ。
しかし、湯浴みの世話をしてくれる侍女には気づかれていたかもしれない。
酒もやめず、今まで通り馬に乗り、身体に悪いことばかりしている自覚はたっぷりとあったし、酒の飲み過ぎで血まで吐いて、母親失格の烙印を押されているのにわたしは日ごとに産みたい気持ちが高まっていった。それなのにわたしはわたしのために開かれた舞踏会をめちゃくちゃにして、フローリアンを遠ざけてしまった。フローリアンに包まれると安心する。世界が砂糖菓子で出来ているような気持ちになる。
そうではない❗
わたしは砂糖菓子の世界に安住してはいけないと思ったのだ。だから、思い切って近衛隊を辞めたのだ。
小さい頃、庭で育っている花に水をやったことはあっても、庭の奥の方の畑は見に行ったことがない。畑で採れたキャベツを山積みにして籠に入れて運んでくる侍女を馬上から見下ろして運ぶのを手伝ってやったことすら数えるほどしかない。林檎の木の下を通ったことがあっても、手を伸ばして赤い果実をもいでそのままかじったこともない。自分のために自分の手を汚したことがほとんどないのだ。それは間違っている。そんな世界がいつまでも続いて良い訳がない。フローリアンと結婚するということはそういう世界だけに住むことなのだ。
アンドレには申し訳ないことをした。
彼の眼が不自由でなかったら、あの夜にすべてわかっただろう。だって赤ん坊がわたしの腹を蹴るのだから。何人もの恋人を自慢する貴婦人たちをこれでもかというくらい見て、庶子らしい少年たちが小姓として宮殿を走りまわるのを見かけてモヤモヤした思いでいたのに、わたしは最低だ。
わたしはさかりのついた雌ではないか?
しかもわたしは夜の中でアンドレの子が欲しいと願い続けていたのだ。フローリアンとの子が育っているというのに。このどす黒い感情に私は打ちのめされ身震いした。
それでも正直に打ち明ければアンドレはわたしを受け入れてくれるだろう確信があった。
だが、それすらも私がアンドレの主人だからこそであって、人間としてわたしを許せるのかというとそれはまた別の話であり、許されたものではない。
ここまでなんとか腹の子を護れたのだ。だが、パリには出動したかった。
安穏とベルサイユにいてはあとから後悔が押し寄せてくる!それは確信だった。しかし、腹の子を何としても守り抜かなくては。
正直、もうダメだと思った。
フローリアンに抱かれた馬車の中で腹の中で動く我が子に気づいたときはもうこれ以上の奇跡はないと思ってわたしは泣き続けた。
私が打ち明けなかったので、フローリアンは私が傷の痛みに耐え兼ねて泣いているのだと思ったのだろう。ひたすら髪を撫で続けてくれた。
奇跡の連続だ。
一命を取り留めて、腹の子の命も護れた。
なんとしても産みたい。
わたしの命とひきかえになったとしても新しい生命をこの世に送り出したい。
できれば男の子を産みたい。
そのためにはわたしがもっと体力を取り戻さなくては!
フローリアンにすべて任せよう。
わたしよりも彼のほうがずっと世間というものを知っている。
8月になった。
わたしはまだ生きている。
アンドレが生きていたら今頃どうしていただろうと考える。
多分ふたりしてパリのうちの別邸にでもいるのではないか?
ばあややロザリーにも来てもらって。
だがそれでは私は何もせずに大きなお腹を抱えながら寝ているばかりで邸にいた頃より不自由で貧しくなるだろうが世話してもらうばかりで以前とあまり変わりがない日々を送っているに過ぎなかったのではないか?
わたしは貴族の暮らしから抜け出せないのだ。
生きていく力がないのだ。
そんなわたしでもアンドレは愛してくれるのだろうか❔
産まれる子は祝福されるのだろうか❔
結局わたしはひとりでは赤ん坊のごとく何もできないまま暮らすしかないのだ。
大口を叩いてはみたものの与えられた伯爵領がなかったら、日々の食事もままならないのだろう。
母上に会いたい
フローリアンと今度はバッハの曲を連弾したい。
8月になった。
国王一家は規律や秩序がまだ整わない国民衛兵たちに取り囲まれてベルサイユで暮らしている。
旧来の近衛兵も国王一家に付き従っているが、今や近衛の最高責任者となったフローリアンは南フランスの自邸からうごけないでいる。
そして密かに開かれる茶話会やサロンの集まりで貴婦人たちは囁き続けた。
「ねぇ、お聞きになった?オスカルが生きているんですって!」
「もちろんしっているわ!どうなさっているのかしら?」
「ジェローデル伯爵といっしょに南フランスで療養しているそうよ」
「そればかりではなくてよ。なんと彼女は身ごもっているそうよ」
「秋には生まれるのですって」
「なんと!それでは」
「フローリアンは振られたことになっているけれどれっきとした婚約者でしたのね」
「ジャルジェ家ではご夫人のジョルジェット様もご結婚からすぐのご出産でしたわね」
「あら?そんなことが」
「お若い方はご存じないでしょうけれど」
「ねぇ、お聞きになった?お聞きになった?❗オスカル様がね」
「いやぁ~わたしたちのオスカルさまが大きなお腹を抱えているなんて」
「お腹の大きなオスカル様なんてわたしたちのオスカル様ではないわ!」
(続く)