夢うつつ♪つれづれ草子

書いて残しておきたい事が、たくさん出来ました(*^^*)
自分自身のための備忘録なんだけれど…いろいろ書きたいな♪

『光る君へ』つれづれ

2024-01-10 18:40:11 | 映画やテレビや音楽のこと
24年の大河ドラマ『光る君へ』が今週から始まりましたね。

「源氏物語」が好きなので楽しみにしていました。
好きとは言っても通読したのは、円地文子先生の訳と「あさきゆめみし」だけですけれど💦
そして、今「源氏物語」マイブームが来ています。

紫式部の人と成りはほとんどわかっていなくて、脚本の大石静さんによると幼少期のエピソードは、ほぼオリジナルだそうです。
だから、まひろという名前ももちろんオリジナル。(一説には香子ではないか?とも言われていますね)

しかし、初回の放送を見る限り、今後に繋がる伏線がたくさん張られているなぁと思いました。
何よりも驚いたのは初回にしてまひろの母が亡くなってしまったこと!
え?ええーっ!と息を呑みました。
そのあとも切なかったですね。
父に「病で亡くなったことにするのだ」と言い含められて。

一方、道長はというと、元服前で三郎と名乗っていて、まだ海の物とも山の物ともつかない感じ。
ただ姉の詮子との仲の良さは初回からクローズアップされていました。
「怒るのは嫌いだ」というセリフが心に留まりましたが、娘の彰子とその所生の皇子たちのためなら何でもやってのけた望月の人は、どのようにして出来上がるのでしょうね。

番組HPを見ますと、まひろと道長の関係は【ソウルメイト】とあります。


最近、興味深い「源氏物語」解説本を読みました。
大塚ひかり氏の『嫉妬と階級の源氏物語』(新潮選書)です。

これによると、藤原道長とはそんなに遠くない先祖はいっしょだったのに、紫式部の家系は受領階級にまで落魄れてしまった。
それが紫式部には悔しくてならなかった。
道長と関係を持ったものの受領階級の子女では道長の妻どころか妾でもない「数ならぬ身」の【召人(めしうど)】としてしか扱われない。
紫式部が「源氏物語」の桐壺帝を、醍醐帝をモデルにしたのは、自分の先祖が殿上人として華やかだった時代だから。
一族の娘も入内し、皇子をもうけたそうです。

だから受領階級の子女である明石の君を幸せにしてやっている(娘の明石の上は国母)。
これは受領階級の子女である紫式部の願望なのではないかと。

それなりの家に生まれたのに受領階級の妻になった空蝉には、落ちてしまった身分を嘆かせるとともに凛とした態度を取らせている。
夕顔の娘で、筑紫で育てられ上洛して源氏に引き取られた玉鬘の生き方も詳しく描き、好意的。
また八の宮の召人から生まれた娘の浮舟(八の宮に認知されていない)にもかなりの枚数を割いている。
それもこれも、受領階級の子女である紫式部ならではの目線なのではないかと。
そして彼女らの生き方におのれの思いを語らせたのではないかと。

などなど目から鱗の解釈が、満載だったのでした。

だから、ソウルメイト=召人かと考えたのですが、大石静さんの考える?目論む?道長とまひろ(紫式部)の関係は、きっとそんなに軽々しいものではないのでしょう。


そして、角田光代さんの訳の「源氏物語」が文庫になりましたので、今年はその全8巻を読み通したいと思います😐
全3巻でハードカバーで出版されたときは、購入を躊躇ったのです。厚いし高いし積読本になりそうだし。
でもお手頃価格の文庫版なら、もし訳文に馴染めなくて読む気になれなくなっても、潔くリタイアできます。

で、昨秋発売の第1巻は読み終えたのですが、読みやすい訳文だと思いました。
「源氏物語」に深い思い入れがない角田光代さんなので、文章に余計な感情が入りこまず淡々としていて、感じ方は読者に委ねるところがいいのかなーなどと勝手に考えています。


さて、『光る君へ』に話を戻しますと、ドラマでは「源氏物語」を再現したりはなさそうですね。
当時の日本の人口がどれくらいだったかはわかりませんが、家族を入れてもせいぜい数百人の平安貴族たち。
確かにとても狭い世界の中での物語ではありますが、今後の展開が楽しみですね。
「お花畑の貴族社会のおとぎ話」で終わらない骨太な脚本だといいな!


さて、ここからは、どうでもいいひとり語り💦🙇
この時代の人物でいちばんの推し(笑)は藤原行成さん。
能書家で有名ではありますが、名門の生まれなのに、祖父と父が早くに亡くなり後ろ楯もなく(花山天皇の外戚であったが花山天皇は早々と失脚した)、無官だった時代もあり・・・一条天皇の蔵人頭になってからは実力を発揮して重用されました。
彼と清少納言とのやりとりが「枕草子」に記してあって、おふざけで詠んだ和歌が後世まで伝わる破目になりました。
祖父も二十歳で亡くなった父も歌人だったので、こんな戯れ歌が後世に伝わってしまうとは😱と草葉の陰で忸怩たる思いなのではないかな?
道長寄りの人物ととらえられていますが、定子所生の敦康親王の家司を最後まで勤めるなど、義理堅い人物でもあったようです。
コメント (2)
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