昭和十四年の天長節に、あと九ヶ月残して仮出獄した私は、
しばらく静養したのち、
蒲田にあった創立まもない富士飛行機という会社に、青年学校をつくることを頼まれ出向いていた。
尾島がでてきたころは校舎もでき、見習工である生徒も、私が青森県下から縁故で予約してきたところであった。
富士飛行機で待っている私のもとに、出獄したばかりの尾島は訪ねてきた。
ところが、互いに自由に口が利けるようになった尾島が、
挨拶もそこそこに、待ち切れなかったとでもいうように、先ず 話しだしたのが、次のようなことだった。
・
栗原中尉に率いられて、首相官邸を襲撃した尾島曹長は、
首相を斃したことに疑念は持っていなかった。
ここが映画 「 脱出 」 に設定されている下士官と先づちがうところである。
それで別に目的を持っていたわけでなく、ただ何気なく、ぶらぶら官邸内をみてまわっていた。
そのうち問題の女中部屋を覗いてみることになるのである。
女中が二人坐っていた。
が 女中が坐っている位置に尾島は不審を抱いた。
背後の押入れにくっついて坐っている。
いかにも押入れのなかをかばうかのような格好である。
といっても、赤穂浪士の討入りのように吉良上野介のありかが、最後までわからないというのであれば、
邸内隈なく、床をあばき天井をはがしても、血まなこになって探したであろうが、
このときは目ざす仇、吉良はすでに討ち果たしたことになっている。
尾島はたしかに変だと思ったから、女中部屋にはいり、
退こうとしない女中を押し退け、押入れをあけてみた。
----なあんだ、なんでもないじゃないか。
尾島は馬鹿をみたと思っただけで女中部屋をでた。
が、これが恐らく獄中生活中、
絶えず尾島をくやしがらしつづけたであろう遺恨事となるのである。
私と会うやいきなり、せきを切ったように話しだしたのもこのためだったろう。
「 たしかに あの下にいましたよ。
押入れのなかに、たたんだ女の着物がながくのべてありました。
たたんだ女の着物は、あんなしまいかたは しないでしょう。
たしかに岡田は、あの下にいたんですよ。
残念なことをしたと、あとで悔やまれて仕方がありませんでした 」
岡田が生きていたと知った尾島の眼底に、
当時は別に気にもとまらなかった押入れのなかの、
ながくのべられた女の着物のことが、
恐らくは色まで、柄まで、まざまざと よみがえってきたにちがいない。
尾島は熱を帯びて話した。
それは 二・二六事件失敗の原因の一つを背負っているという自責をこめたものであった。
が、それを聞く 当時の私は冷静だった。
否、むしろ冷淡だった。
尾島の自責の気持を緩和しようとしたためではなかった。
当時は襲撃の当夜、首相は妾宅にいて官邸はもぬけの殻だったという説が圧倒的に強かった。
私もそれを信じていた。
私が冷淡だったのは、尾島、つまらぬ勘違いをしている----と 思ったからである。
勘違いに熱がはいって、拡大されるほど、滑稽であり 気の毒なことはない。
しかし勘違いだよ、首相は妾宅にいたんだよ、とも いえなかった。
その確証を握っていないからでもあったが、
それより、尾島のひたむきに思いつめている気持ちをはぐらかすことを可哀想に思ったからだった。
二、三日すると、これにまた、おまけが附いた。
「 石丸少将のところに ( 刑務所を ) 一緒に出た者と挨拶にいったら、
誰かこのなかに 岡田大将をみのがしてくれた者はいないかと、
この前 お話した押入れの一件のことが話にでて、
岡田大将から、
命の恩人だが それが誰であるかがわからない、
調べてわかったら教えてくれ
と、かねてから頼まれている
と いうのですよ。
こちらは 討ちもらして残念でしようがないのに、命の恩人もないものですよ。
誰が、それは私だといえますかね 」
腹立ちまぎれの尻を私に持ってきたように尾島は言った。
おや、満更の話でもなかったようだと思いはしたものの、
話のつじつまが合ってきたことが、かえって 尾島に気の毒のように思えた。
そんな私を頼りなく思ったのか、その後尾島は私の前ではこの話は蒸しかえさなかった。
石丸少将は少将でやめて、その後 満洲皇帝の侍従武官になったりしたが、
それをやめたあとは、栗原中尉の厳父栗原勇大佐の同期生でもあり、
栗原大佐に依頼され、将校を除く、二・二六事件関係者の留守宅に対し
二・二六事件に対する宥和政策の軍当局と連絡しながら、ある程度の物資的世話をしていたようである。
尾島たちが石丸少将のもとに顔をだしたのは、その お礼を言うためだった。
富士飛行機の青年学校は昭和十五年の春、青森から生徒がやってきて開校された。
ちょうどその前に 菅波大尉が出獄してきていたので、
私は菅波大尉に青年学校長を頼んで、職を求めて満洲に渡った。
尾島は菅波校長の下で、誠実に舎監を勤めた。
・
終戦後言論が自由になると、真相ブームがおとずれた。
岡田大将は ある新聞に 「 岡田啓介秘話 」 を連載しはじめた。
当然 二・二六事件にもふれた。
そのなかに女中部屋の一件が書かれてあった。
おや! 尾島の言ったことは本当だったんだ、と 思った。
新聞の 「 岡田啓介秘話 」 に ひきつづき
中央公論 ( 二四年二月号 ) に岡田啓介は 「 二・二六のその日 」 を書いた。
それは新聞連載のものと大同小異だったが、やはり女中部屋の一件が書かれてあった。
映画 「 脱出 」 は、この 「 二・二六のその日 」 をもとにして演出されているようである。
「 二・二六のその日 」 によれば、押入れをあけた兵は二人いる事になって居る。
そのどちらが尾島であるかわからない。
「 ・・・・また少尉と上等兵くらいの兵隊と、あと二人の新兵が、この女中部屋にやってきました。
少尉は下女が二人おるものだから部屋の中へ入らず、部屋の襖を開けて外におる。
上等兵が中に入って調べるわけです。
押入れの唐紙を少し開けて----その前に下女に身体の縁を少し囲わしたりしたものですから、
そう明瞭には見えないようになっているのですが、
しかし 私の体にも触っているし、確かに私を見ているのです。
しかしながら その上等兵は、
押入れの上の方に洗濯物みたいものだとか、布団など少し載のっていたのですが、
それをポンと 二つ三つ放り出して、それから反対の側も開けて、
『 異状りません 』 と やっているのですよ。
私はその時、
『 来たものは殆んど全部が味方だ 』
こう思った。
実際、青年将校が兵隊を率いて来たのだから、
この率いて来た青年将校は、私をやっつけてしまおうという考えを持っておったけれども、
率いられて来たものはそんな考えを持っておらないのです。
尤も私が隠れておったせいもあるけれど・・・・
『 岡田啓介 ここにあり 』
と 出ていったら、どうもせぬというわけにいかなかっただろうが、黙っておるとそうじゃないのです。
みんなこっちの味方なんだ 」
というのが第一回目、
「 ・・・・ところがその日の四時ごろですか、下女二人が----これも馬鹿な話で、
私が入っている押入の襖の一つずつに二人が背中をつけて、頑張って居るのですよ。
そこへ一等兵ぐらいでしょうね、それが兵隊を二人か 攣れて廻って来ました。
そうして下女が二人居るのを見て、
『 もう お前 帰れ、この官邸で女というのは お前ら二人しかおらぬのだから、
もう日は暮れるし、どこでも自動車で送ってやるから帰れ 』
と云う。
下女は
『 私は秘書官から云いつけられたのだ。 総理の遺骸のこちらにある間は帰らない 』
と 言うのですよ。
そうすると、
『 そんなこと言っても、秘書官には俺がよくいってやる。総理に尽くすお前の心はそれで十分だから帰れ 』
と 言って手を引っ張った。
こちらを見て、私がおるものだから----私は もうとてもいかぬと思って起きようとしたのだ----
そしたら
『 わかった、わかった 』
と 言って閉めてしまって、
『 そりじゃ 遺骸のある間は居ってもいい、飯をどうかせぬといかぬな 』
と いうことを仲間の者と話して・・・・」
というのが二回目である。
・
尾島はどちらであろうか。
二回目のほうが尾島のようであるが、はっきりしない。
はっきりさせたらいいではないか----が、それは私が 「 岡田啓介秘話 」 「 二・二六のその日 」
を 読んだころでは、もうできないことだった。
尾島が此の世にいなかったからである。
尾島は終戦少し前に亡くなった。
せんそうが苛烈になって、東京がB29によって方っぱしから焼野原にされようとするころになって、
あわただしく工場疎開がどこでも行われたが、富士飛行機も、どこかに疎開することになった。
トラックが山のように疎開荷物を積んでは、つぎつぎ工場の門を出た。
尾島はある日、この疎開荷物を積んだトラックの上乗りをしていて交通事故にあい、
即死したのである。
尾島が生きていたら 「 岡田啓介秘話 」 も 「 二・二六のその日 」 も そのままでは通用しないし、
したがって 映画 「 脱出 」 も 構成を一変しなければならなかったにちがいない。
・
女中部屋の押入れに隠れていた岡田首相が、押入れの襖の外のことまで書いているが、
そんなことが、真実であり得よう筈はない。
現に 「 岡田啓介秘話 」 と 「 二・二六のその日 」 とでは、それが相前後して書かれたものでありながら、
かなり内容にちがいがある。
大同小異とはいったが、小異は小異ながら、実は相当に違いがあるのである。
肝心の押入れの襖をあける兵の話が、前者と後者とでは、あべこべになっているのである。
が、それはともかく、
青年将校以外は 「 来たものは殆んど全部が味方だ 」 「 みんなこっちの味方なんだ 」
と 思ったというのは、早合点であり、独り合点だろう。
もちろん千数百名の下士官、兵が全部同志であったとは私は云わない。
そんなことはあり得ない。
・・・略・・・
映画 「 脱出 」 1962
ともあれ、
革命の決は軍隊の動向如何にあるといっても、全部の兵の動向を問題にすることはない。
要は指揮官の動向であり、兵一人一人の問題でなく、組織の問題である。
二・二六事件がおさまっての後、兵のなかに 「 将校にだまされた 」 と 云う者があったというが、
たとえ そういうものがあったとしても、
それは二・二六事件の革命、革新としての評価を左右する根本問題にはならない。
尤も 村中孝次は 『 丹心録 』 のなかで、
「 吾人は蹶起部隊の全員が悉く同志なりとは主張せず、
初年兵は入隊後日尚ほ浅く、従って是れを啓蒙する余地なかりしは固より 其の所にして、
且つ 蹶起将校中二三士は平素同志的教育啓蒙を部下に施しあらざりしことも否定するものにあらず 」
と 云いながらも、
「 然れども、参加せる下士官及二年兵の多くに於ては、吾人と同一精神を有し、
其の決意の鞏固なる点に於て、将校同志に比し 遜色なきもの亦多数ありしことを信じて疑はざるものなり 」
と 云って、下士官、兵の決意鞏固であった具体例を、くわしくあげてはいる。
・
映画 「 脱出 」 では兵隊が押入れの襖を開けた時、岡田は坐った姿勢でいるが
「 二・二六のその日 」 では
第一回目は 「 ---その前に下女に身体の縁を少し囲わしたものですから 」
と 言っているし、
第二回目は 「 ---私は もう とてもいかぬと思って起きようとしたのだ 」
と 言っているから、寝た姿勢でいたようだし、
身体の縁を少し囲わしたというのが、多分女中が自分からの着物で囲ったのだろうと思われるから、
尾島の話と、この辺も合致するようである。
尚 「 二・二六のその日 」 には ないが 「 岡田啓介秘話 」 のほうには、
押入の襖を開けた者のうち
一人は篠田憲兵上等兵と、その名が明記されてある。
おそらくこの方は後で岡田が礼も言ったであろうが、
もう一人の方は
「 このことについては現在でもわからないままになっている。
もし その間の事情を知っている当時の兵隊がいたら、いきさつを聞かせてもらいたいものだ 」
と 言って、わからないままになっているのである。
石丸少将に頼んだのは、
その兵隊のことを知り、命の恩人として会って礼も言いたかったのだろうが、
その兵隊はついに現れなかったし、
その 「 いきさつ 」 も 聞かしてもらえなかったわけである。
が、そのほうが岡田啓介にとっては好都合だったはずである。
「 みんなこっちの味方なんだ 」 の 幻想がこわれなくてすんだから。
・
岡田啓介が女中部屋に隠れていたことが、本人によって語られた後になっても、
たしかに二・二六事件勃発の日に岡田は妾宅にいたと実証をあげて反論する者がいる。
が、女中部屋の一件について、尾島曹長と岡田啓介の語るところに符号する点があるので、
岡田啓介の名誉のためにも、やはり女中部屋に隠れていた、
すなわち首相官邸に居たという説を、私は事実と思うことにしている。
映画 「 脱出 」 をセミ・ドキューメンタリーと思う所以である。
・
最後に、さる女性のこれに関連した手記の一節を抜萃しておこう。
「 二十九日夜になりて襲撃をうけて即死を伝へられし犠牲者の一人
岡田内閣総理大臣が奇跡的にも命拾ひをして現存し、
首相に酷似した松尾大佐身代りとしてたふれたる由を聞きて
あの世より よみがへりたる心地して うべなへかねまつ まことなるかと
いかにして弾をのがれし そのかたきかこみを逃げし ふしぎなるかな
西園寺は妾と共にトラック ( 貨物自動車 ) に荷物と化けて逃げ、
牧野内府は女の着物を着て山へ逃げ、
岡田首相はむくろに化けて棺に入りて逃げたり
といへる噂
正に昭和の御代の逃避行三幅対なると聞きて
この御代に まことふしぎのありとせば かかることかと思はるるかな
実に皇国万世のけがれと申しはべれめ 」
さる女性と云ったのは 高貴の方であるから、その名を憚ったのである。
末松太平 著
軍隊と戦後のなかで
映画 「 脱出 」 について 1962.6
から
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二十六日の午後は、それからどういうふうに過ごしたか、はっきりした記憶がない。
ただ一つだけ残っていることがある。
それは女中部屋に料理番の老人が風邪のため寝ているという知らせがあったことである。
栗原中尉は、兵には日本間の方には行かぬように、そして部屋の中には入らぬように注意していた。
そして 要所には歩哨を立て、幹部は時々見廻りをしていた。
私が見廻りをしている時、女中部屋には一人の女中が廊下の方を向いて正座していた。
そして向って右側の押入の戸は開けたまま、
その中に足を部屋の入口の方に向けて布団を眼の下位までかぶって寝ている老人がいた。
私は、二言、三言、この女中さんと言葉をかわしたような記憶があるが判然としない。
私達の頭の中では、岡田首相は既に亡骸となって座敷に安置してあったから、
この老人に何等の疑いを差しはさまなかった。
後から聞いた話では 尾島曹長も一部の下士官兵も何人かここに来て様子を見ているが、
誰も気の付く者はなかった。
私は女中さんのきちんとした態度に敬意を抱き、何かしら近づき難いものを感じて立ち去った。
『 岡田啓介回顧録 』 には ここの場面を次のように記してある。
「 ・・・その後も三十分おきぐらいに兵隊が見回りにくる。
将校は、さすがに女二人しかいない部屋に入るのを遠慮して廊下に立ったまま、
「 異状はないか 」 と 聞く。
兵隊が二人くらい入ってきて女中に 「 異状はないね 」 と聞き、「 ありません 」 と 答えると、
今度は押入れの唐紙を・・・・両端をすこしずつ開けて、
中にあった洗濯物を一つ二つ外へ つかみ出して中を改めるようなしぐさをして唐紙を閉めて、
「 異状ありません 」 と 将校に報告する。
そこで つくづく考えたのであるが、兵隊は私の見方だということだ。
ちゃんと私の顔を見ている。
私が押入れにいることを知っている。
それでいて別段 私をどうしようという気を起さないのは、不思議である。
私は首相だと感づいているのに、黙っていたのか、
それとも、もう首相は死んだものと思い込んでいるので、
妙なじいさんがいるのを見つけても関心を持たなかったためなのか。・・・」
一部の兵士の中には首相が生きていると思っていた者もいたらしいが、
その時は そんなことは全くあり得ないと思っていた。