あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

林八郎少尉 「 中は俺がやる 」

2019年09月06日 21時36分22秒 | 栗原部隊

官邸の中の様子を見ようと、私は玄関から中に入っていった。
中は暗く、所々兵隊らしい者の歩く足音がした。
私は不意の襲撃に備えて拳銃を構えながら、静かに進んでいった。
玄関横の警官の部屋と思われる部屋には、
裏門の方に向けて低い窓が作られてあって、そこに枕が二つ並んでいた。
先程 討入の時、撃たれたのは此処からだと判った。
廊下を進み、部屋を一つ一つ見てまわった。
二、三回、兵と顔を合せた。
私が再び玄関に戻ってくると、林とばったり出合った。
林は私に
「 貴様は外部をしっかり固めていてくれ。中は俺がやる 」
と 言って中へ入っていった。


 頭脳明晰であると共に
 
「 五尺の小身これ胆 」 と称されし同期生随一の豪傑
   リンク→憲兵・青柳利之軍曹 「 駆けつける 」

林は
私と日本間の玄関で会った後、
屋内に入り、
抜刀して暗い廊下を進み、
電話室か浴室の前あたりに来たとき、矢庭に警官に後から組みつかれた。
ややもみ合っているうちに腰を落して、
左手で警官の襟を掴んで背負い投げをし、
右手の軍刀で斬った。
さらに、
もう一人の警官が身体をひるがえして離れようとする所を、
突きの一手を以て倒したという。
その時、近くの中庭に人がいるという報告を受け、
どうしますかとの問いに、
林は即座に射撃を命じた。
この中庭で撃たれた老人が、
首相の義弟で秘書をしている松尾陸軍大佐で、
後刻、岡田首相と誤認せられた方である。

・・・挿入・・・
「ようやくあたりが明るくなってきた。
もう六時かも知れぬ。
私たちはその後日本間の廊下附近で警戒にあたっていたが、
そこへ林少尉がやってきた。
するとその背後から警官が近ずいてきた。
私はどうするのかと見ていると
警官がいきなり林少尉に飛びつき羽がい締めをかけた。
少尉は不意の攻撃に面喰い懸命に振りほどこうともがいたが、
警官の体は一向に離れる様子がみえない。
少尉は顔を青くしてワメいたが数秒沈黙した後 背負投げを打った。
技は見事に決まり、
警官の体が ドウ と 前にノメリ 一本決まったかと思った時
警官はスックと立上がった。
相手もその道の達人のようだ。
すると林少尉は
間一髪 軍刀でバサッと袈裟切りを浴びせ 一刀の元に斬倒した。
まことに見事な腕前であった。
後刻十時頃
玄関付近で打合せをしていた林少尉が、
近くの机にもたれて待機していた私たちをみつけてツカツカとやってきて
銘刀長船に刃こぼれを残念だとこぼした。
話によると
警官を斬った時、力があまり障子のレールに刃があたったそうで
刃先が大きくえぐれているのを見せてくれた。」
歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵・森田耕太郎 
   二・二六事件と郷土兵 から

    ・・・○・・・○・・・

林に組み付いた警官は土井清松という柔道四段、剣道二段の猛者で、
林はこれとの果し合いに興奮していたのであろう。
暗がりの中、
何処から警官が現れるかも分らない状況の下で、
相手をよく確かめる余裕もなく 松尾大佐を射たしめてしまったのだ。
生命のぎりぎりの瀬戸際では、冷静な時には考えられぬことが起るものである。
私が屋内を廻って出たのと、
林が再び屋内に入ったのと時間のずれは一分位であったと考える。
まさにこの一分の差で
私と警官が出合うことなく、そして林が乱闘を演ずることになったのだ。
土井、村上の両警官が、首相を一時、浴室に隠している時に私がその前の廊下を通り過ぎ、
しばらくして警官が出て来た時に林とぶつかったのだ。
運命のいたずらと言うべきであろうか。


池田俊彦 著
生きている二・二六  から