あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 若い男前の将校 」

2019年09月02日 04時18分08秒 | 栗原部隊

総理の写真
私は昭和十一年、
明治時大学英法学部在学中
徴兵によって歩一機関銃隊に入隊した。
その時 二十五歳であった。
私はそれまで 学生運動に参加したため 赤アカの嫌疑をもたれ、
徴兵検査時には憲兵が終始つきまとっていたのを覚えている
  
栗原安秀
一月十日入営した日、
若い男前の将校がきて 我々新兵と父兄を前に置き、
世の中の腐敗振りを痛烈に批判し、
これを改革しなければ 日本は亡びる と 述べた。
堂々たる演説に一同は舌を巻いたが
歩一には随分思切ったことをいう将校がいるものだ と 思った。
それが 栗原中尉で我々の教官となった人であった。
教官としての栗原中尉は 初年兵に対し面倒見がよく、
訓練の方は常に実践的だった。
MG や 小銃の取扱いもさることながら
実弾射撃を早くから始め、
明日からでも戦闘に参加できることを目的に訓練が進められた。
また 代々木にも随分通ったが、
ここでは演習よりも 精神訓話に重点が置かれ、
全員を車座にして その中で
中尉が現代社会の情勢をはじめ、国民の苦しんでいる原因など
熱のこもった口調で話された。
「 このままでよいと思う者・・・・ウム、誰しも不満のようだ、当然である。
では どうすれば世の中がよくなるか、
悪い奴等を葬るのが改革の早道だ。
即ち 天皇の御威光を遮っている連中を取除くことである。
明治維新によって日本は文明国に生れかわることができた。
それと同じように国民全部が幸福になるには昭和維新が行なわれなくてはならない 」
私は教官の話を聞いているうちに、
彼は近いうちに 何かやるのではないかと直感した。

代々木練兵場の往復はいつも師団司令部の前を通った。
当時 司令部の中に軍法会議が特設されていて、
今をときめく 相澤事件の公判が一月二十八日から進められていたのである。
教官はそのことを承知しているので、
正門近くにくると必ず抜刀して号令をかけるのが常であった。
歩調トレー !
相澤中佐殿ニ対シ 敬礼
カシラーツ、左ー !
郡靴の音と共に 中尉の号令が凛然として響く
「 相澤中佐殿 頑張って下さい。栗原達も近くやりますぞ。」
おそらく中尉はそのように 相澤中佐に呼びかけていたのであろう。
果してその声が 法廷に届いたかどうか、
中尉の相澤中佐を想う気持が痛い程 判るような気がした。

日曜日は休日で 用のない者には外出が許可される。
そんな時 栗原中尉は外出者を集めて次のように訓示した。
「 お前たちは天皇の軍隊であり軍人である。
だから 外出中警官に文句をいわれたら ブッとばせ、
連絡あり次第 俺が馬に乗って応援に行く 」
以上のように
栗原中尉の気質や思想は いしつか私達初年兵にしみこみ、信頼を深めていった。
従って 事件への参加は独り将校だけでなく、
下士官兵も気脈をあわせて立ち上がったとしか考えられない。
中尉は我々の入隊時 勅諭など形式的なものは覚えなくてもよい。
それよりも 何日何時でも 天皇の前で潔よく死ぬ覚悟を堅持してもらいたい
と いったが、これこそ真に憂国の至情というものであろう。
栗原中尉という人は
そういう無駄のない赤誠にあふれた青年将校であった。

« 2月25日 »
二十五日の晩、
点呼後 我々は二装用軍服を着て待機するよう命令された。
班長たちはピストルに実弾を込めて張切っているし
何かが始まる気配がヒシヒシと迫っているようだった。
私はフト、ベッドの上で友達の東郷ヒロシ、松津耕平の二人に手紙を書いた。
< 大事件発生、株暴落 >
この手紙は本人に届いたが、その後憲兵によって没収されたそうである。
« 2月26日 »
二十六日 ○三・三〇 非常呼集がかかった。
私はいよいよ始まったなと直感した。
その後大急ぎで仕度をして宿舎に集合した。
ここで実包を一人 六〇発ずつ受領したあと、栗原中尉から訓示を受けたが、
興奮していたためか 何を話されたか覚えていない。
そして 出動先も判らなかった。
その夜 雪は止んでいたが 前日までの残雪で外は明るかった。
四時過ぎ 出発、
営門を出ると隊列は左折し 赤坂方面に向った。
途中私は 鉄道大臣官邸前のポストに手紙を投函した。
やがて三十分もたった頃 首相官邸に通ずる坂道を上って行った。
いつも演習できた道だ。
すると官邸の非常門と思われるあたりから ビービー という非常ベルの音が聴えてきた。
何のための合図なのか不明である。
隊列は官邸を左に見ながら十字路を通過するとみるや、
先頭の栗原中尉が突然戻ってきて 通用門に近づき 警戒していた警官を無言のうちに制圧、
それを合図に 各部隊は持場に散った。
何事ぞ、
襲撃目標は総理大臣だったのである。
私は機関銃の第六分隊で裏門にまわり その付近の警戒にあたったが、
その時 襲撃隊は早くも屋内に入った模様で銃声が聞こえてきた。
しばらく銃声が響き緊張が続いたが 間もなく静かになった。
私は中の様子を見ようと加藤二等兵と共に警戒しながら家屋に近づくと、
栗原中尉が出てきて
「 日本間にある総理の写真を持ってきてくれ 」
と 命令された。
すでに射殺されている総理と照合するためであった。
そこで私は写真をはずし 栗原中尉の所に持って行くと、
中尉は両方の顔を交互に見ていたが、
その結果間違いないという確認を得たので遺体を日本間に移し安置した。

襲撃終了後全員車廻し付近に集合して 四斗樽を抜いて乾杯した。
次いで 私は別働隊となり、
栗原中尉と共にトラックで朝日新聞社の襲撃に出発した。
間もなく数寄屋橋を渡った所で我々MG班が下車、将校と小銃班が現地に向った。
我々は橋のたもとにMGをすえて 一般人の渡橋を遮断した。
警戒中数名の民間人がきて
「 演習ですか 」 と 聞いたので 「 これを見れば判るだろう 」 と いって実弾を見せたが、
彼等はそれでもまだ演習だと思っていたようである。
新聞社の襲撃は一時間足らずで終了した。
我々は再びトラックに乗り 各報道機関を巡回した後 官邸に引揚げた。
その日は寒い一日だった。
歩哨以外は適宜暖をとったが、
正門脇の詰所では戸を閉めて木炭を一俵一度に焚いたため
忽ち一酸化炭素の中毒をおこし 気が狂って発砲する騒ぎまでおこった。
« 2月27日 »
翌日 霊柩車がきて遺体を運び出したので、近くにいた我々は清冽して見送った。
将校たちが忙しく出入し 状況が刻々変ってゆく様子がみえる。
栗原中尉は他所に行ったまま 長時間戻ってこないので、
下士官兵は警備体制のままでノンビリしていた。

その夜私が非常門の歩哨に立ったとき、荒木大将がきた。
私は早速
「 誰カッ!」 と誰何した。
すると相手は、
「 お前は何年兵か 」
と 反問したので
「 初年兵であります 」
というと
「 そうか 立派なものだ 」
と いって帰って行った。
当時歩哨線を通過できるものは
合言葉 「 尊皇--討奸 」 及び 体のどこかに 三銭切手を貼布してある者
と されていたのである。

夜 何時頃だったか、
民間人が大八車に 握り飯を山のように積んで持ってきたことがあった。
「 兵隊さん、これが私共の気持です。ゼヒ たべて下さい 」
その人は 泣きながら そういって握り飯を置いていった。
民衆が我々を味方し援助してくれることは 実に有がたいことだ。
我々の蹶起は民衆も認めているのである。
栗原中尉は坂を下った交叉点付近に出向いて 白ダスキ姿で民衆に対し演説をブッた。
民衆がそれにこたえて盛んに拍手と檄を送っている。
民衆にとって我々の蹶起が当然のことのように受け止めているようであった。
« 2月28日 »

二十八日になると
今までの好ましい情勢が一変し 門前市をなした市民の姿が一人も見えなくなった。
そのうち我々は反乱軍となったことを知らされた。
一体これはどうしたことか。
その夜 私と菱谷は 栗原、林 両教官の当番となった。
私はその時、二人の世話をすることができる光栄にからだが震えた。
そして充分に慰めてあげねばならないと決心した。
そこで身辺の護衛には充分気をつかった。
事態は刻々急迫を告げ 道路の向い側にある露路には いつしか鎮圧軍がつめかけていた。
ここで何かのキッカケがあれば忽ち戦闘に発展することは明かだ。
このため銃隊はすでに覚悟を決め、栗原、林 両教官のために死ぬことを誓い合った。
そして 遺書を書き、最後に刺し違いする戦友まで選定した。
« 2月29日 »
明けて二十九日、
戦闘に備えて官邸内に銃座を作り、
我々 MG は 門外において特許局の方から上ってくる鎮圧軍を阻止するように陣地を構えた。
その時 私は射手であった。
私の両側に菱谷と井口が付添い、すぐ後に池田少尉が指揮官として位置した。
「 金子、俺が命令するまで絶対撃ってはいかんぞ、いいか撃つなよ 」
池田少尉は神経をピリピリさせながら私にそういった。
ここで万一 私の親ユビが押鉄を圧したら取返しのつかぬことになるであろう。
緊張が続く。
そのうち二階で 一発銃声が鳴った。
初年兵が緊張のあまり暴発とたらしい。

明るくなった時 戦車がやって来た。
そして目前 十米位いの所で停止した。
飛行機もきた。
盛んにビラをまき、地上ではスピーカーがボリュームをあげ、
繰返し 繰返し 原隊復帰を呼びかけてきた。
「 逆賊とは何たるいい草だ。
我々の蹶起は陛下がお認め下さっているのだ。
今更戒厳司令官の命令など 以ての外だ。
フザケるな。」
中尉はそう云って 詩吟を口ずさんだという。

九時頃突如 栗原中尉が命令を下した。
「 全員撤収 ! 」
遂に最悪事態が到来した。
我々 MG班は陣地を撤去して中に入り、全部の門扉を閉じた。
すると鎮圧軍がいっきょに門前に殺到してきた。
その中にヒゲをつけた少佐参謀がいて 大声で叫びはじめた。
「 ヤメロッ ! 天皇の命令だ。撃つな、たのむ ! 」
彼は 我々が邸内で戦闘をはじめると思ったらしい。
参謀の声が我々の耳に入るたび ムッ となった。
「 天皇の命令がいつ出たのか、そのような命令は一切聴いてはおらん。この野郎ふざけるな 」
とうとう 一部の物が門扉をあけて着剣で飛出した。
すると相手はワッと後退し逃げた。
再び邸内に入って門を閉ざす。
そんなことを何回か繰返した後、徐に銃を置いた。
やがて全員は庭に集合し中尉から訓示をきいた。
その要旨は次のようだった。
「 七度 生れかわって国の為に尽す覚悟、皆も余の意志を継いで奉公されたい 」
中尉は自殺するつもりのようだ
そう察知した我々は中尉を抱きかかえて屋内につれて行った。
そしたら死ぬなら一緒にと皆 男泣きに泣いた。
すると中尉は、
「 俺は自殺などせんぞ、これから軍法会議に出廷して所信を天下に問うつもりだ 」
と いって 自殺を否定した。
やがて栗原中尉の万歳を唱え終ると
下士官以上の幹部は参謀の導きによって自動車で官邸を去っていった。
それから間もなく我々は憲兵によって武装を解かれ、
待機しててたトラックで近歩一に送り込まれた。

歩兵第一聯隊機関銃隊  二等兵 金子良雄 著 『 総理の写真 』
二・二六事件と郷土兵 から