首相官邸を襲撃
二月二十五日、午後十一時ごろ栗田班長に起され、班員約二、三十名とともに弾薬庫に連れていかれました。
小銃とМG ( 機関銃 ) の 各実弾を銃隊事務所に運び入れましたが、何のためか初年兵の私には知るよしもありません。
班に帰りますと、今晩非常呼集があるといわれ、そのまま就寝しました。
栗原安秀
二十六日午前三時過ぎになって非常呼集がかかり、全員営庭に整列、そこで、弾薬を受取り、
「 尊皇 」 「 討奸 」 の合言葉などの伝達があったのち、出発しました。
行き先は首相官邸です。
隊列は営門を出て六本木を左に折れ、溜池より特許庁わきの坂を登り首相官邸横に止まりました。
午前五時を期して一斉に襲撃です。
私の第一分隊は非常門から進入、日本間近くの庭園に散開しました。
栗田分隊長より 「 班長が撃てとて命令するまでは発砲するな 」 と 言われ、伏せて待ちました。
やがて官邸警備の警官が発砲してきたので撃ち合いとなったのです。
二年兵は庭石の景りポンポン撃っています。
目の前 七、八メートルの所で、拳銃を撃っていた警官が銃弾を受けて倒れ、長い呻き声のあと、亡くなってしまいました。
日本間のほうからは、怒号とともにパチパチと激しい撃ち合いの音がします。
私たち隊員の中にも負傷者が出たもようです。
空が白み始めたころ、銃声も止み、目的達成の連絡がありました。
待ちかまえていた私たちは、ドッと日本間になだれ込み、六、七名の者と力を合せ、
中庭で死んでいる首相の遺体を寝室へ運びました。
頭のほうは重いので何人かで持ち、私は足のほうへまわりました。
首相は大柄なので、ずい分重い人だなと思ったことを覚えています。
運んでいるとき、首相の寝巻きの裾がはだけて下着が見えました。
このとき、ふと、首相ではないような、別人のような気がしました。
この私の勘が的中していたことが、あとになってわかりました。
このとき、当の首相は女中部屋の押し入れの中に隠れ続け、翌日、弔問客にまぎれて脱出したのでした。
しかし、栗原中尉と林少尉が日本間にかけてあった首相の写真と遺体とを見比べ、
間違いなしと言われてその場はすみました。
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栗原中尉の専属運転手
その後私は表玄関の警備につきましたが、栗田分隊長の命令で負傷者を若松町の陸軍第一病院へ運ぶことになりました。
今では ほとんどが免許を持っていますが、当時は銃隊では私だけでした。
官邸備え付けの車を借用することとなり、早速車庫に行きました。
キャデラック、パッカード、ナッシュ、ハドソン、エセックスなど運転したことのない外車ばかりです。
その中からまずパッカードを選びました。
病院へ負傷者を運んだところ、軍医が負傷者の銃創を見て 「 どうしたんだ、何かあったのか 」 と 言いました。
私は 「 そのうちにわかるでしょう 」 と 軽く返事をしただけでした。
あわただしく病院と官邸とを四往復して、負傷者の入院を完了させました。
それが終ると、今度は栗原中尉のお供で四日間専属運転手を務めました。
栗原中尉には、教官として演習後講話を受けていました。
国家の現状 ( 東北地方農民の窮状 ) 、相沢事件など常に国政を憂えての精神訓話でした。
中尉は軍人精神の厳しいなかにも温情溢れる、兵隊あこがれの青年将校でしたから、
専属運転手の大役を仰せつかったことは、非常に光栄でした。
行き先は首相官邸、陸相官邸、警視庁、幸楽、山王ホテル、九段の軍人会館、憲兵隊司令部などでした。
いたるところで歩哨線を通過、その際 「 尊皇 」 「 討奸 」 の 合言葉を交わしました。
無理に通ればズドンと一発くるからです。
車は首相官邸のものですから、内閣のマークはついていましたが、蹶起部隊の印はなかったので、
間違えられてズドンとやられるかもしれないと、いつもハラハラしていました。
その緊張が二十九日まで続きました。
出勤してから四日目の二十九日、尊皇義勇軍として活躍したわれわれは反乱軍ということになり、
奉勅命令を受けて武装を解き、原隊に復帰することになったのです。
官邸の広場で栗原中尉の最後の訓示を聞くことになりました。
「 昭和維新は成らず、教官 ( 栗原中尉のこと ) は負けた。
満洲に行っての活躍と、みんなの武運長久を祈る。
今後も教官の意思を継いでくれ 」
この言葉に一同は声をあげて泣きました。
私は特に身近でお仕えしておりましたので、感無量でした。
民百姓の苦しみを救う道は消えた、と 栗原中尉のガックリと肩を落として去っていく後ろ姿を、
私は泣きながらあとを追って見送りました。
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この事件を振り返っていつも苦々しく思うことは、われわれ叛乱軍に対する扱いです。
拾ったビラには、原隊に帰れば罪は許されると書いておきながら、
実際は帰隊後、下士官以下全員が取り調べを受け、一部の兵隊を含めた下士官全員は刑務所に送られました。
われわれは放免されたとはいえ、反乱軍の汚名をずっと着せられ続けました。
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歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵 横道記武
『 首相の死体に疑問を抱く 』
決定版 昭和史 二・二六事件前後 昭和9--11年 7 から