丹生誠忠
二月二十七日 山王ホテルニ宿營スルトキ、
香田大尉ヨリ 山王ホテルハ將來組閣本部トナルヤモ知レズト言ハレタリ。
二月二十八日小藤大佐ヨリ 奉勅命令ハ小藤大佐ノ手許ニ握ツテ居ルコトヲ聞キタリ。
栗原安秀
我々ガ下士官以下ヲ同志ト稱スル意味ハ、
軍人各個人ハ上元帥ヨリ下一卒ニ至ル迄
陛下ノ直属デ忠節ヲ盡ス上ニ於テハ其ノ間ニ甲乙アルベキニアラズトノ氣持チナリ。
故ニ、之ヲ指揮シテ獨斷専行ヲ行ヒタルハ指揮官ニ在ルヲ以テ、
下士官以下若イ將校等ニハ責任ヲ負ハスベキモノニアラズ。
自分ノ部下トシテ行動シタル者ニ對スル全責任ハ自分ガ負フベキモノト思料ス。
兵ニハ責任ナク 下士官ニハ責任アリ ト云フガ如キハ不合理ナリ。
・
奉勅命令ガ出ソウデアルト云フコトヲ屡々聞イタガ、最後迄正式ニ達セラレナカツタ。
元來、勅命ナルモノハ絶對ノモノデ、
之ヲ受ケタナラバ直ニ達セラルベキモノダト信ジテ居ル。
苟モ奉勅命令ヲ豫メ出シテ貰ツテ
何時迄モ達せずに持って居るなぞと云ふことはあり得るべきものでない。
奉勅命令を逹セズニ置イテ、賊軍ノ汚名ヲ負ハサレタノハ殘念デアル。
下士官以下ハ將校ニダマサレタト言フタトスレバ、
ソレハ賊軍ノ汚名ヲ負ハサレタ爲デアルト信ズル。
・・・昭和11年5月10日、第八回公判
林八郎
二月二十六日陸相官邸ニ到リタル際、
參謀本部ノ騎兵少佐 ( 氏名不詳、磯部承知 )
來リアリテ我々ノ行動ヲ賞賛シ、
『 今度ハ僕等ガヤルノダ。アンナ年寄リニ何故相談スルノカ。
アンナ者ハ一緒ニヤツテ仕舞ヘバヨカツタノニ 』
ト 語リタリ、云々。
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・・・挿入・・・
參謀本部の土井騎兵少佐が來て、
「 君等がやったからには吾々もやるんだ、
皇族内閣位ひっくって政治も經濟も改革して、軍備充實をせねばならん、
どうだ吾々と一緒にやらふ、
君等は荒木とか眞崎とか年よりとばかりやっても駄目だ、
あんなのは皆ヤメサシてしまはねばいかん 」
等と、とんでもない駄ボラの様な話をし出した。
余は此のキザな短才軍人に怒りをおぼえたので、
維新は軍の肅正から始まるべきだ (幕僚の肅正)、
これを如何に考へておられるのか、と 突込む。
返答に窮したる情態。
時に村中が、
「 オイ磯部、そんな軍人がファッショだ、
そ奴から先にやっつけねばならぬぞ、放っておけ、こっちへ來い」
と 叫ぶ。
・・・ 磯部淺一 行動記 第十七 「 吾々の行動を認さんめるか 否か 」
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池田俊彦
豫審ニ於テ陳述セル 山口一太郎大尉ガ
今回ノ事件ノ計畫ニ参加シアル旨ノ言ヲ取消シ、
事件ヲ豫知シアリシハ事實ナルモ 計畫ニハ參加シアラズ
ト 述ベタリ
・・・昭和11年5月11日、第九回公判
中橋基明
二月二十七日給養ノコトニ關シ
近歩三聯隊副官ト首相官邸リ通話シタル際、
聯隊副官ハ 「 歸ツテ來ヌカ 」 ト 慫慂シタルヲ以テ、
「 戒嚴部隊ニ編入セラレ麹町地區ノ警備ニ服シテ居ルノダカラ、歸ル譯ニ行カヌ 」
ト答ヘ、
給養ニツキ交渉シタル処、
「 歩一ヨリ給養ヲ爲ス筈 」
ト ノ返事ナリシガ、
其後ノ田中大尉 ( 軍吉 ? ) ガ電話ニカカリ、
「 今ノハ聯隊長ノ意圖デハナイカラ安心シテヤレ 」
ト言ハレタリ、
云々
・・・昭和11年5月14日、第十一回公判
安藤輝三
二月二十八日幸楽ニ在リテ、
軍首脳部ガ若イ將校ニ對シ自決ヲ迫リタルコトヲ聞キ、
尚、近衛師團ノ兵ガ攻撃シ來ル模様アル狀況ヲ見テ憤慨シアル際、
村上大佐來リテ維新ノ大詔ノ原稿ヲ示シテ呉レタ 云々。・・・リンク → 維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」
尚、其ノ前後小藤大佐來リ、
安藤、オレニツイテ來イト言ハレタカラ、
今直ニデスカト尋ネ、
直ニ之ニ應じ様トスルト、
マー待テト言ツテ立チ去ラレタキリ、
其ノ後何ノ沙汰モ無カッタ、
云々。
坂井直
今回ノ事件デ我々ノトツタ行動ハ、
二ツノ異ツタ部分ニ分ケルコトガ出來ル。
即チ、
陸軍大臣ノ告諭ノ出ル迄ハ獨斷専行デ、
其ノ後ハ統帥權ヲ授ケラレタ正當ナ軍隊行動デアル。
獨斷専行ノ部分ハ陸軍大臣ノ告諭及小藤部隊編入ニ依リテ之ヲ認メラレ、
其ノ後ノ部分ハ一ニ命令ニ依ツテ行動シタモノデアルカラ、
我々ノ行動ヲ取調ブル以外ニ、
陸軍大臣トカ小藤大佐トカソウ云フ人々ノ行動ナリ心境ナリヲ調ベテ、
之ヲ明カニシテ貰ヒ度イ、
云々
・・・昭和11年5月15日、第十二回公判
坂井直
今回ノ事件前
山下閣下ヲ訪問シタル際、
閣下ニ對シ高橋デアツタカ、
「 統帥權干犯者ニ對シテハ如何ニ處置セラレルベキモノナリヤ 」
ト 質問シタル処、
閣下ハ、
「 ソンナ者ハ斬ツテ仕舞ヘバイイ 」
ト、答ヘタ、
云々
・・・昭和11年5月16日、第十三回公判
麥屋清濟
坂井中尉ガ下士官ヲ集メ蹶起スル旨ヲ達シタル際、
自分ハ下士官ガドンナ顔ヲスルカト注意シテ見テ居タガ、
暫ラクノ間ハ沈黙ノ狀態ニ陥リ、茫然トシテイル様ニ見受ケラレタ、
云々
( 暗ニ下士官ハ自ら進ンデ蹶起シタルニアラザルコトヲ意味ス )
高橋太郎
二月二十七日
新議事堂ニ蹶起將校ガ集リタル際、満井中佐ガ來テ、
維新ノ大詔ガ發セラルゝバカリニナツテ居ルガ、
國務大臣ガ辭表ヲ提出シテ居ルノデ、副署スル者ガナクテ發セラレズニ居ル旨ヲ告ゲタリ、
云々。
渡邊教育總監ノ表玄關ヲ破壊シテ内部ノ扉ヲ押シ開カントスル際、
内部ヨリ射撃ヲ受ケタル狀況ニツキ陳述スル際、
二階ニ在リシ者ガ降リ來リテ射撃シタル氣配ナカリシ
旨陳述ス。
・・・昭和11年5月18日、第十四回公判
安田 優
公訴事實ニ對スル反駁
檢察官ノ陳述セル公訴事實中我々ノ行動ヲ賊軍ノ如ク取扱ヒアルモ、
私ハ奉勅命令ニ背キタルコトナキニ附、
奉勅命令ヲ傳達シタルヤ否やノ點十分心理アランコトヲ希望ス。
尤モ、私自身トシテハ賊徒ノ汚名ヲ甘ジュシテ死スルノ雅量ヲ有セザルニアラザルモ、
國軍ノ爲ニマコトニ遺憾ニ堪ヘザル次第ナリ、
云々
原因、動機ニ就テ
上層階級ノ精神的堕落、中堅階級ノ思想的頽廢たいはい、
下層階級ノ經濟的逼迫ひっぱく ヲ救フ爲ニハ、
球磨川ノ如キ流ガ大ナル岩ニ當リテ激スル如キ事件ヲ起コスカ、或ハ戰爭ヲ起スカ、
兩者其ノ一ヲ選ブノ外ナシト思料シ、
而モ戰爭ヲ起スコトハ我國内外ノ情勢上危險ヲ伴フ虞アリタルヲ以テ、
前者ヲ選ビタルモノナリ。
而シテ多クノ諸君 ( 相被告ノ意 ) ハ陸軍大臣ノ告諭、戒嚴部隊編入等ヲ以テ
我々ノ擧ガ正シキモノノ如ク考ヘアルガ如キモ、自分ハ意見ヲ異ニス。
即チ、我々ノ行動ハ其ノ良否ハ別トシテ、
最初ヨリ正シキガ故ニ正シキモノニシテ、
今トナリテハ考フレバ、
大臣ノ告諭、戒嚴部隊ノ編入等ハ却テ禍トナリタルモノト思料セラル。
肩ニベタ金ト星ヲ三ツ着ケテ自己ノ職分ヲ盡スコト能ハザル如キ軍人ノ存在ヨリモ、
身分ノ低キ一士官候補生ニテモ
自己ノ信念ニ基キ盡クスベキ処ヲ盡ス者ノ存在ガ國軍ノ爲如何ニ有用ナルカ、
嚴頭ニ立ツテ頭ヲメグラス如き軍人ノ存在ハ國軍ヲ毒シ國家ヲ滅亡ニ導クノ因ヲ爲スモノニシテ、
斷ジテ排撃スベキモノナリ、云々
國軍ノ將來ニ對スルオ願
私ハ斯ク申セバトテ我々ノ今回ノ擧ヲ以テ罪ナシトナスモノニアラズ。
又、國法無私スルモノニモアラズ。
唯現在ノ國法ハ強者ノ前ニハ其ノ威力ヲ發揮セズシテ 弱者ノ前ニハ必要以上ノ威力ヲ發揮ス。
我々今回ノ擧ハ此ノ國法ヲシテ絶對的ノ威力ヲ保タシメントシタルモノナリ。
私ハ今回ノ事件ヲ起コスニ方リ既ニ死ヲ決シテ着手シタリ。
即チ、決死ニアラズシテ必死ヲ期シタリ。
今更罪ニナルトカナラヌトカヲ云爲スルモノニアラズ。
靜カニ處刑ノ日ヲ待ツモノナり。
今、玆ニ述ベントスル処ハ、恐ラク私ノ軍ニ對スル最期ノオ願ト成ル物ト思料ス。
(1) 軍ガ財閥ト結ブコトハ國軍ヲ破壊シ國家ヲ滅亡ニ陥ラシムル原因ナリ。
而シテ其ノ萌芽ハ既ニ三月事件、十月事件ノ際之ヲ認メタリ。
( トテ、池田成彬ガ靑年將校ニ偕行社ニ於テ金錢ヲ分配セントシタルコト、
十月事件ノ宴會費ハ機密費ヨリ支出セリト云フモ 財閥ヨリ支出セラレタル疑アルコトヲ引例ス )
(2) 軍上層部ト第一線部隊ノ者トノ間ニ意思ノ疎隔アルハ國軍將來ノ爲憂慮ニ不堪。
此ノ傾嚮ハ在満軍隊ニ於テ其ノ著シキヲ見ル。
永田事件後、軍上層部ニ依リテ叫バレタル肅軍、統制ノ聲ハ相當大ナルモノナリシガ、
第一線部隊ニ在ル者ハ第一線ノ部隊ハ軍紀風紀嚴正ニシテ統制ヲ破ル者ナシ、
肅軍、統制ノ必要ハ第一線部隊ヨリモ軍上層部ナリトテ、中ニハ憤慨シタル者アリ。
多門師團長ガ第一線部隊ノ將兵ガ困苦欠乏ト闘ヒアル際自分ハ高楼ニ坐シテ酒色ニ耽リ、
靑年將校ガ憤慨シテ斬り込ミタルハ事實ナリ。
某旅團長ガ花柳病ノ爲部下將兵ヲ満洲ノ野ニ殘シテ歸還セザルベカラザルニ至リタルモ事實ナリ。
日露戰役ノ際、上原將軍ガ部下將兵ト共ニ戰場ニ於テ穴居生活ヲ爲シアルヲ見タル
獨逸皇太子ヲシテ感歎セシメタルハ有名ナル話ナルガ、斯ノ如キ將軍ガ現今幾人アリヤ。
(3) 將校ト下士官以下トノ氣持チハ漸次遠カリツツアリ。
此ノ現象ハ國軍將來ノ爲看過シ難キ一大事ナリ。
我々ハ及バズナガラ此ノ點ニツキ努力シ來レルガ、
將校タル者ハ大イニ考慮スベキコトト信ズ。
(4) 將校團ノ團結ニ就テ
現在ノ將校團ニハ士官學校出身アリ、少尉候補者出身アリ、特別志願者アリ。
士官學校出身者ノ中ニ於テモ貴族的ノ者アリ、
役者ノ如キ軟派ノ者アリ、或ハ纔わずかニ氣骨ヲ保持スル者アリテ、多種多様ナリ。
此ノ現象ハ將校團ノ團結上障碍ヲ爲スニアラザルカ。
以上四項ハ軍首脳部ニ於テ特ニ御考慮ヲオ願ヒシ度キ點ニシテ、
恐ラク私ノ最後ノオ願ヒナリ。
・・・昭和11年5月19日、第十五回公判
常盤稔
二月二十六日歩兵第三聯隊ヨリ警視廳ニ電話アリ、
所属中隊長ヨリ御苦労デアツタカラ今カラ兵員ヲ出シテ交代サセ様ト思フ トノコトデアツタ。
ソコデ、自分ハ交代シナクテモヨロシイト返事シタガ、
暫ラクシテ機関銃隊ダケハ手違ヒデ交代者ヲ出シタト電話ガカカリ、
内堀大尉ト柳下中尉ガ約四十名ノ兵ヲトラックニ乗セテ來タガ、
交代ハイラヌト断ツタ処、其儘聯レテ歸ツタ、
云々。
清原康平
自分ハ十分ナル信念ハナカツタガ、
安藤大尉ニ對スル信頼ト、
命令ニ依リテ動カスカラ心配スルナトノ安藤大尉ノ言ニ依リ 參加ヲ決意スルニ至ツタガ、
下士官兵ニ對シテハ具體的ノコトヲ示サズ終始 命令ヲ以テ動カシタリ。
聯隊出發ノ際、柳下中尉ガ兵ヲ見送ツテ泣イテ居ルノヲ見タガ、
柳下中尉モ自分ト同様信念ナク、
命令ニ依リ部下及機關銃ヲ出シタル苦シキ立場ニアルコトヲ思ヒ、同情ニ堪ヘナカツタ。
然シ、ソコデ自分ノ方ガ部下ト共ニ行クノダカラ
部下ノ責任ヲ自分一身ニ引受ケルコトガ出來ル點デ仕合セダト自ラ慰メタ、
云々。
・・・昭和11年5月20日、第十六回公判
鈴木金次郎
二月二十五日
安藤大尉ヨリ決行ノコトヲ打明ケラレタトキ、
決心ガツカナイノデ中隊長代理新井中尉ニ相談スル旨答ヘタル処、
安藤大尉ハ、新井ハ非常ニ心配シテ居ルカラ相談スルナ、
俺ガ週番司令トシテ命令シテ行動サスカライイデハナイカ、
ト 言ハレマシタ。
ソコデ、中隊長代理ニハ話サナカツタケレドモ、
安藤大尉カラ話シテアルモノト思ヒマシタ。
・・・昭和11年5月21日、第十七回公判
山本又
二月二十六日夜
陸相官邸ニ於テ氏名不詳ノ大尉ヨリ、
戒嚴司令部ニ於テハ蹶起部隊ヲ討伐スベシトノ議論沸騰シタルモ、
石原大佐ノ宥なだめニ因リ取止メトナリタル旨ノ話ヲ聞キタリ、
云々
三月三日身延山ニテ天裁ヲ受ケ、
下山途中、柳川閣下ニ對シ
「 時局ヲ救ツテ下サイ 」
トノ 意味ノ手紙ヲ發シタリ、
云々
・・・昭和11年5月23日、第十八回公判
澁川善助
明治大学ノ後輩佐藤正三ガ山形ニ行カントスル際、
同地聯隊ニ在ル同期生浦野大尉ニヨク相談シテ行動スル様注意ヲ与ヘタリ、
云々
村中孝次
肅軍ニ關スル意見書ニ掲ゲアル三月事件ニ關スル事項ハ、
姫路歩兵三九田中少佐ノ手記ヲ同人ノ承諾ヲ得テ記載シタルモノナリ、
云々
・・・昭和11年5月25日、第十九回公判