あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

下士官の赤誠 2 「 これ程言っても命令に服従したと云えんのか 」

2017年11月06日 20時15分18秒 | 下士官兵


福島理本伍長
1 「私は賛成します 」 ・・の続き

班に入ってみると
すでに帰っている者があって 私達が最後であったことが判った。
軍装を解いてゆっくりしていると 六時頃 兵隊だけが呼出され営庭に整列した。
どこかへ連れて行かれるらしい。
そこで私も外に出て見送りかたがた軽機班全員にあいさつした。
「 これから取調がある筈だから取調官にはあくまで命令で出動したと云え。
なおこれでお前達ともお別れになると思うから呉々も体を丈夫にして軍務に励んでもらいたい。
それでは元気でな・・・・」
私はそう言ってから落城悲憤の気持で兵舎を眺めた。
兵隊は近歩三に連れて行かれたそうである。

それから二時間後、今度は下士官集合がかかり
本部前に整列するとホロ付きのトラックが来て 輜重一に連れて行かれ、営倉に入れられた。
入倉者は全部十中隊の者だけだった。
囚われの身になってみると初めて自分の境遇が浮彫りされ、次々に不安が高まり、
それを打消すために次第に昂奮していった。
衛兵司令を呼びつけて命令してみたり、色々と用事を命じたりしてウップンを晴らそうと試みる者が多発した。
私は気を静めようと便箋と鉛筆を差入れてもらい絵を画くことにした。
そして入倉者の苦悩をとらえ憤激と落胆に満ちた営倉内の後継を克明に画いた。
題して 「 同志獄中になげく 」 我ながらよくできたと満足した。

二晩を過ごした翌日、トラックで代々木の陸軍刑務所に移された。
青い囚人服に着替え、所持していた事件中の尊皇討奸の幟と叔父宛の遺書を没収されたあと独房に入れられた。
三日目から雑居房に移されたが房中は無言。
三十分正座、三十分安座の繰り返し、チリ紙は一日六枚、未決とはいえ獄中の起居は真に身にこたえた。
だが食事がよかったのがせめてもの救いであった。
三月末頃になってようやく予審がはじまり、私は約六回ほど呼出された。
だが不思議な事に夜ばかりである。
予審官はまず家の事、軍隊に入った目的、教導学校のことなどを聞き、その次に事件に参加した個人的所感、
幹候を志願しなかった理由などを訊ねた。
この取調はどうも思想的偏向の様子をみていたようである。
ここで私は現下の国政からみて起こるべくして起こった事件で、行動は正しかったと言ったところ、
予審官の心証を大分害した様子が見えた。
「 だが 出動は詰まる所 命令によるものではないのか、そうだと云え
「 予審官殿は自分が入所した時 取上げた遺書をお読みでしょう。私の気持は今でも変わっておりません 」
・・・遺書・・・
政、財、軍閥の不正をせん除し、昭和維新を迎えんが為、ここに決起に参加することにした。
容易なことと思えないので、ここに書を認めて長年の慈育に対して感謝申し上げます。
昭和十一年二月二十五日よる     理本
父上殿
・・・  ・・・
「 これ程言っても命令に服従したと云えんのか。 もう何を聞いてもムダだ、帰りなさい
私は予審官の 「 帰りなさい 」 の言葉に
何のためらいもなく部屋を出て付添看守に伴われて帰房した。
取調中、終始憎しみをたぎらせて予審官をみていた私だったが、
予審官の言葉で胸中の優しさを知り 人間性を取り戻したような気がした。
・・リンク→反駁 ・ 福本理本伍長 「 相澤中佐はさすがだと思いました 」 

予審終了後の四月二十七日、
松本、宇田川 等数名が不起訴処分で出所した。
私は七月五日に判決を受け
叛乱罪として禁錮一年六ケ月、執行猶予二年が科された。
この裁判は一審制のため、不服であっても控訴ができない仕組になっていた。
私は何も言わなかった。

既に入所直後陸軍懲罰令によって位階勲等を剥奪され一等兵となった私には、
最早変えるべき所は郷里の家しかなかった。
厳重な かん口令の説明をうけた上 その日出所になったが、
着替える衣服がないので肩章、襟章をはずした軍服を借用し、ひとまず佐藤曹長の宿舎に落ち付き、
取り急ぎ家に向けて電報を打った。
「 イマデタ、スグイルイタノム 」
家の者は私の出所を承知したが居所が不明なので、兄が衣服を持ってきたそうである。
兄は衛兵所で元当番兵に衣服を渡し、当番兵が私の所に届けるという方法でようやく紋付、羽織袴に着替えることができた。
私は早速隊本部に行って挨拶し、すぐ家に向かった。
だが私は出所して家に帰るまでの間、実にいやな思いをした。
先ず初めが 佐藤曹長の家に落ち付いた時であるが、
向かい側の家の窓が絶えず開閉し眼の鋭い男が私を見ているのである。
私はムッとしてその男を呼びつけた。
「 あなたは何の目的で人の家を覗くのか 」
「 私は警視庁の者だ 」
「 多分そんなことだろうと思っていた。しかし私を対象とするなら無駄なことだ、つきまとう必要はない 」
「 誤解されては困る。私はあなたの保護のために見張っているのである 」
口は重宝なものだ、歩五とは恐れ入った、私は呆れてその男の顔を見なおした。
和服になって連隊に行くときもその男はついてきた。
営門を通り聯隊本部にもついてくる様子だった。
そこで私は兵営内は警視庁の及ぶ所ではないから待っていろと 一人で本部に行き挨拶した。
上野から汽車に乗ったが兄と刑事と三人で一ヶ所に向いあい、汽車が埼玉に入ると埼玉県警の者が乗込み、
熊谷駅から本庄警察が乗り 県警と交代、本庄駅に下車すると村の駐在に引継がれ 藤田村傍示堂の実家まで同行した。
一体私をどう見ているのだろう。
それ程 私の思想が異常だというのか。
私は終始腹が立ちどうしであった。
しかし執行猶予の身とはそういうものであったのである。
年期が明けるまではそのように仕組まれた中で生活を続けねばならなかったのである。
このような屈辱の日々は翌年召集がくるまで続いた。
事件の話は禁止、遠方に行くには警察に届出、畑で仕事をしている時 双眼鏡の監視をうけるなど、
個人の人権など全く無視された生活だった。
翌年十二年八月十二日召集がきて一等兵として第三野戦化学研究隊に入隊した。
この部隊は歩三で編成され 北支の天津に本部を置き、前線に出て研究資料の蒐集や情報伝達を行う毒ガス部隊である。
十三年二月一日 一等兵のまま現地除隊、軍属を経て民間会社に入社した。
この間北支の兗州えんしゅうで十二月半ば過ぎ、
事件当時の判士であった中尾金弥大尉 ( 当時磯ヶ谷兵団副官 ) に会ったことがある。
彼の前に立った私は
「 その節は大変御世話になりました 」
というと、一寸胡散臭い顔をして 「 誰か 」 と反問した。
「 二・二六事件の軍法会議で裁きを受けた被告です 」
というと 急に驚いた様子で向き直った。
そしてすぐ、「 一寸宿舎にきてくれ 」 と 言って彼の家に招かれ 下にも置かぬもてなしを受けた。
私がこんな姿になり、執行猶予の身であることを彼は彼なりにとらえ、
軍法会議の在り方、判士の立場など 当時に立ち返って胸中の苦しみをしみじみと述べて呉れた。

以上が私にとっての二・二六事件とその後であるが、
正しいと信じて参加したものの、
巨大なる圧力によって撲滅し 反乱の汚名を着る結果となった

世に 『 寄らば大樹の蔭 』 という言葉があるが、
毒があろうと トゲに鎖されうと大樹であれば寄るべきなのであろうか。
私が村に帰って来た時、空虚な心境で有識者に挨拶、その批判を乞うた。
村長、小学校長、在郷軍人分会長 等々 この人たちの事件への取り組み方は夫々に違っていても、
私の立場には皆同情的で裁判の行き過ぎをなじっていた。
やはり世間は全てが反乱者呼ばわりしていないことを知り、私は嬉しさと救われた気分に打たれた。
百姓をやっている間に聯隊から就職斡旋の通知が来たことがある。
軍馬廠を指定し どうかとの問合せであった。
私は腹が立ち即座に断りの手紙を出した。

最後に
私は家に帰ってきてから自決するつもりだった。
死ぬことによって自分の気持が正されると思ったからだ。
然し 村の有識者の励ましで生きて社会の為になるべき人間の道を説かれ、
遂に死ぬ機会を失い 今日迄生きて来た。
思えば 二・二六事件はまさに奥行きの深い大事件であった。

その時肝はきまった
歩兵第三聯隊第十中隊 伍長 福島理本 著
二・二六事件と郷土兵 から


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