相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十四 ○○大尉
確か昭和六年と思ふ。
東北のある街の料亭で歩兵五聯隊将校團の宴会があつた。
酒宴の重なるに従ひ 歌ひ 且つ 跳ね 酒席は漸く亂れて居る。
平素酒癖ある某中尉は排尿を催したと見え、
よろめき立つて酒席の中央に憚りながら股間より代物を摘み出した。
これと前後して相澤中佐殿は ( 當時少佐で大隊長 ) 該中尉の前に空になつた吸物椀を持つて坐つた。
飲酒中の排尿量だから見る見る吸物椀は一杯になつて行く、
と手を伸して有合はせた盃盞を取り上げ續いて残余の小便を完全に受け取つて仕舞はれた。
翌早朝中隊教練檢閲の爲め、
野原に出て砂糖もつけず朝食の食パンを喫している昨夜の中尉の前に坐した相澤少佐殿
「 某君、今朝は早いので朝食を食つて來なかつた。私にもパンを少し下さい 」
と余り美味しくもないパンを齧り乍ら
「 昨夜は面白かつたですネ 」
右の事實と稍前後した某日の酒席。
各人十二分に酩酊し平素少佐殿の信頼する某古参中尉が---相當の大酒家であるが珍しく---
大広間の眞中に横たはり忽ち熟睡した。
「 僕も寝やう 」
と、如何にも自分の可愛い年若い弟を抱きしめる様にして同じ掛布団の下にいびきを合せて寝て了つた。
ほろりとする情景だつた。
然し少佐殿は人を知る如く滅多に料亭などに行かれる事のない謹嚴なお方だ。
心境
昭和十年初め頃 「 心境 」 を語らるる少佐殿の一句。
鮮血一滴洗邦家 千古賊名甘受還
秋空の澄み渡つた如き人格。
溢るゝ如き部下に對する愛。
これ等が右の些細な酒席に於てさへも躍如として居るではないか。
次頁 中佐の片影・其十五 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十五 ××大尉
◇ 更に××大尉の思ひ出の記を掲げる。
「オーイ」
えらい大きな聲で手を上げてタクシーを呼んだ。
然しタクシーは通り過ぎた。
東北第一の都会仙台市の目抜きの場所でのことである。
一九三五年を気取ったつもりの男女や、
世間體を考へること磁針のやうな人々が振り向くことさへ沽券にかかはると言はぬばかりに
変な横目を軍服の中佐につかっている。
何処を風が吹くか。
成程中佐にとっては世の中は濶い。
・
「 寺の若いものは近頃は大變だらしなくなりまして昔のやうには參りません。
時々相澤さんにでも來ていただいて励まして貰はなくては・・・・ 」
輪王寺の老僧の話。
・
士官候補生の時、軍事教官としての中佐に薫陶された某大尉から聞いた話。
「 まだいけない。一ツチ二、一ツチ二 」
闇夜でも懐中電灯で照らされながら
「 候補生は膕が伸びなくてはいけない 」
と速歩行進をやらされた。
又ある日曜日に訪問すると、
被せてあつた半紙を取って饅頭を山盛にした大きな皿をだして
「 食べよ 」
と言はれる
遠慮してしばらく手を出さない。
此教官は黙つて又紙を被せて皿をもとの位置にしまつた。
・
タクシーの話。饅頭の話。
人の思惑も詰らぬ見榮も微塵だに意になく、タクシーを止めることのみ一念になりうる。
純一無雑の心。
これこそ禅の極致とも言ふべきではあるまいか。
黙って饅頭をしまふ。
何んと言ふ無言の教訓であらうか。
次頁 中佐の片影・其十六 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十六 □□中尉
昭和七年夏、遊泳演習の一日のこと。
夏ではあるが北國の海は泳げる天気は少ない。
だが演習は規定通り實施して居る。
二、三日前から余り天氣もよくないし、教官以下嫌々乍ら。
丁度其の日は小雨でも降りそうな肌寒い日和、海岸には僅かに子供が戯れているだけだつた。
監督たる大隊長相澤少佐も毎日水に浸つて居られた。
教官たる見習士官は専習員を集めて準備はして居たが内心取止めを希つていた。
と 乗馬で來られた大隊長は、
「 準備は出來たか 」
と言ふなり素ツ裸になつてジャブジャフ゛と海に入つて行かれる。
見習士官は恥しい気持だつた。
終ると
「 俺の馬を持つて帰れ 」
窺ひ知れぬ奥底の一部が映つて思はず涙が出た。
擲弾筒、手榴弾の査閲の或る日。
補助官は兵を一列に並べて手榴弾を投げ突撃を實施して一通り終ると大隊長は突然、
「 斜左の方向に突撃 」
事の不意に驚いて、照れかくしに反問すると、
「 馬鹿ツ、それでも見習士官か !! 」
成程、と思つたのは余程後のことだつた。
× ×
私的に極めて温情に溢れ親切叮嚀だつた。
私的訪問の時などこれが教練時の大隊長かと思はれる程だつた。
そして
「 君達は幸福だ。いい聯隊にきて幸福だよ 」
と、よく言はれた。
「 こんな聯隊に居ると時代におくれる 」
と、某將軍から言はれたのと對稱して人物の偉さは階級や地位ぢやないことを痛感した。
× ×
あの人を射すくめるやうな威嚴のある眼の奥底には
言ひ知れぬ慈愛の涙のあつたことを思ひ出さずには居られない。
年が廻つて三年經つて會つた。
当時の事など語つて実に朗らかだつた。そして、
「 子供等が嬉々として手をつないで遊んで居るのを見ると自分は涙が出る 」 と。
ああ、吾人も何らの粉飾もない乳のみ子のやうな純な氣持ちになり度いものである。
嚴父の誠と慈母の情け。率先垂範。
而して子供の無心に戯むれるに涙ぐむ中佐の心。
ああ軍人とは斯くの如きを言ひ、神の心とはこの心を言ふのであらうか。
次頁 中佐の片影・其十七 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十七 △△少佐
昭和七年の夏、中佐殿は小官の燐家に引越して來られた。
中佐殿は相當澤山の御令息や御令嬢があつた。
御末子 ( 三歳の令息 ) は非常に病弱で顔色青く痩せ衰へて居られた。
三歳と云ふのに未だ母乳や牛乳のみで育てられていた。
前任地青森で幾回も大病せられたとの事だつた。
中佐殿は朝晩此令息を抱いて居られた。
或る日又復急病で入院せしめられた。
非常な重態で食塩注射をされたやうであつた。
時恰も夫人は臨月の身重な御身體だつた。
聯隊では夜間演習のある日である。
中佐殿は御令息の御重態をも省みず演習に參加せられた。
御令息は遂に逝かれた。
中佐殿は遺骨を郷里に納めて其の儘秋季演習に參加せられた。
小生は何んと御悔み申上げてよいかと心苦しかつた。
お悔みを云はうとすると
「 子供なんかのことはどうでもよい。想定を見せて呉れ 」
と言はれて、一室で一生懸命想定を讀まれた。
× ×
或る日 自分は中佐殿と對座中、ふと次の様なことを言ふた。
「 左翼の人は思想は別としても、
自分の一身を捨てて主義の爲めに殉ぜんとする精神は美しいですネ 」
と、中佐は即座に
「 右翼のものもその通りだ 」
× ×
中佐殿は特に公私の別の明かな方だつた。
私上では吾々後輩に對してさへも 「 △△君 」 とか、「 △△さん 」 とか 丁寧な言葉を使はれた。
然るに一度公務となると俄然嚴然たる硬骨的存在であつて、
職務に対しては飽迄嚴正に服務せられた。
或る時聯隊區司令部の某少佐が中佐殿に ( 當時聯隊の兵器委員首座なりき )
青年訓練所生徒の射撃競技会の爲め兵器の貸与を申出でられたが、
中佐殿は 「 貸与出來ぬ 」 と謝絶せられた。
某少佐は再三再四事情を陳べられて聯隊長も同意して居られる旨を傳へられたが、
中佐殿は、
「 仮令 聯隊長が同意されても、首座は法規外の貸与は許しませぬ 」
と、頑として聞き容れられなかつた。
次頁 中佐の片影・其十八 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十八 〇中尉
相澤中佐は清廉潔白の士なり。
人誰か邪を好むべき、然れども凡人の悲しさ、
不識の間環境の支配を受け邪曲の道を歩みつつ、
敢て邪曲たるを悟らざること往々にして之れあるなり。
然れども相澤中佐の如きは如何なる場合如何なる時機と雖も、
事の大小となく特に些細な小事に対しては殊更に正邪の判断を明確にし、
以て常に正しき道に向つて邁進するの士風を有し、
歪める事に対しては徹底徹尾之を厭忌したりき。
相澤中佐は常に皇室の尊厳と国体の尊重に関し力説せられたり。
畏くも、皇室に対し奉り、一部国民中、
特に有識階級に誤れる観念を有する者あることに関しては常に慨嘆せられたり。
又我が国体の世界に冠絶する所以の理を我が国の歴史を通じて更に深刻に、
指導階級に徹底するの必要を高唱したり。
殊に准士官、下士官団に対しては、その監督たる立場、機会を捉え、
公室尊厳、国体観念の正しき認識把握に至らしむる様努力せられ、
以て兵教育の指針を示され、
将校特に中少尉に対しては集会所の座談時 或は演習場の休憩時等に於て、
個人毎に叙上の道を力説され、其の熱意 其の誠心に皆感激せざる者なんりき。
吾等は相澤中佐の風貌に一日数回接すると雖も、
毎日常に 「 厳乎たる正しき人 」 に遭ふ言ひ知れざる敬虔の念に打たれ、
我身我心の引締るを覚へたりき。
温容慈父の如く平素の性格慈母の如し。
然も歪曲邪悪を厭忌すること又峻烈。
而も尚 爆発的憤激を為すが如きことも些もなく、
諄々として誨おしへ 而して遂に声涙共に下る。
克く忍び克く容れ克く誨ふ。
以て将校以下に範を垂れたり。
次頁 中佐の片影・其十九 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十九 ××少尉
自分が親しく中佐殿の薫陶を受けたのは士官候補生時代である。
當時聯隊は満洲事變の爲め出勤中のこととて若い將校は殆んど居らず、
繁激な勤務に追はれて誰も相手にしては呉れなかつた時
一人此の多忙の中にあつて、
愛撫され手を取つて指導された人は實に中佐殿であつた。
而も懇切丁寧、熱誠宛も親の子に對するが如くであつた。
一見硬骨な中佐殿はその接するや
慈母の如く温情溢れ、血もあり 涙もある 言ひ知れぬ懐しみを皆齊しく抱いて居た。
一度劍をとれば教士の腕ある人などとはどうしても見えなかつた。
一度口を開いて、皇室を説くや、熱誠言外に溢れ赤心鐵をも熔かす慨があつた。
昭和八年九月本科に入校
中隊長森田中佐は
候補生に對する訓話の時間、
現代の典型的武人として
相澤三郎中佐殿の偉大なる人格を引用して
我々に斯くあれと教へられた。
偉大なる中佐殿の人格。
その中に何処か大西郷に相通ずる何ものかが
多分にあるやうに思はれるのである。
次頁 中佐の片影・其二十 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其二十 ○○曹長
中佐殿は武人として典型的な方として日常その壮容に接し、
不知不識の中に教化された點が實に多くあります。
特別指導的な立場から教育をうけた事はありませんが、
中佐殿は聯隊の教育主任であり、
自分はその直接の助手として居た関係上 殊に印象の深いものがあります。
一、第一に自分の心に映じたことは教育計畫其の他諸種の起業を致されます時、
必ず自分の机に向ひ 合掌約十二、三分、それより仕事に取りかかられました。
これは無念無想の境に入つてから物事に取り懸られる所だと私は推察して居りました。
二、次に筋道の通らぬことは絶對に承知せられません。
無理なことは部下に向つてさへ鄭重なる謝辭を以て吩咐け、
又演習等に於ては常に部下の労苦を考へ、その労苦の按配を考へ、
細心の注意を払つて居られました。
三、軍隊を裨益する爲め上官に意見を陳べる時の精神は
全く軍隊内務書に示されてある通りで
隊長に對しても自己の意見は忌憚なく暴露し、
實に其の際の熱心なる態度は言語にも現はれ勇ましいものでありました。
然し一旦隊長が決定されると、それは實に神妙に承知され
まるで別人の如くその決定事項に専念されました。
四、中佐殿は礼儀正しい人と申しますか敬虔の念の深い人と申しますか、
如何に忙しい時でも部下に對する答礼は確實でありましたことは當番兵も噂して居る位でありました。
大抵の方は下士官以下の場合、
事務室で服務中は殆んど眞面目な正確な答礼は余り見うけられません。
又それが自然の如く考へていました。
然るに中佐殿は本部のあの出入の多い事務室で
一兵に至るまで一々確實な答礼をなされるのでありました。
此の点は實際私共には眞似の出來ないことでありました。
其の他 私用を他に依頼し、又其の復命の場合などは
一兵卒に向つても必ず立つて丁寧に御礼を申すのでありました。
是等の點全く皆一様に感銘した事と思ひます。
五、其の他細く申せば數限りありませんが、部下を決して叱られません。
お叱りを受けたことはありません。
演習などに於ても不都合が起つたとすると必ず自分の計畫を不備とし、
部下を責めることはその原因が故意に非ざる以上決してありませんでした。
私の中佐殿に関する感想は以上の様であります。
故に私は中佐殿を神様の如く信じて物事を行つて來ました。
これからも中佐殿の無言の中に教へられた教訓を守つて行きたいと思ひます。
又その覺悟であります。
本當に好いお方でありました。
何等欠点として擧げる所もなく、修養出來た立派な上官でありました。
次頁 中佐の片影・其二十一 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其二十一 △△中佐
自分は大正六年六月から臺灣の獨立守備隊に居つて
相澤さんは翌七年の十二月に赴任して來られた。
相澤さんは第七中隊附で、
當時同中隊は劍術も射撃も聯隊の最下位で大隊長中島少佐も常に之を憂ひて居られた。
適々相澤さんの着任幾許もなく大隊内の劍術競技会が行はれた。
將校にも銃劍術の仕合をやらせると言ふので、
自分等は不心得な考ではあつたがお互いい加減にやる事にしやうと申合せた。
まだ來たばかりであつたから相澤さんにはこの申合せを告げなかつた。
所が 仕合になつて見ると相澤さんはあの炯炯けいけいたる眼光で猛烈果敢、
全く眞劍勝負の勢でやつて來るので我々の申合せはすつかり壓倒され打破られて了つた。
各中隊將校皆眞劍で闘はざるを得なくなつて了つた。
結局優勝したのは第六中隊から出た自分であつたが、その眞劍さに於て、その氣力に於て、
その態度に於て 正しく相澤さんが第一等の立派さであつた。
大隊長も大いに嬉しかつたと見えて講評中に
「 我が大隊には立派な將校が來て喜ばしい 」
と感嘆し、
「 第七中隊は凡て相澤中尉を模範として勉励すべきである 」
と述べられた。
相澤さんは非常に部下を可愛がつた人で、當時もよく下士兵卒と一緒にすき焼きなどやつて居られた。
當時同聯隊に熊本幼年學校の六期生で高岸昶雄中尉が居つたが、
その結婚が許された祝と言ふので自分等五六人各々一升瓶を一本づつひつ提げて押掛けたことがある。
相澤さんは高岸中尉の燐家に居つて俺もと云ふてやつて來た。
相澤さんはかねて高岸中尉やこの時押掛けた仲間の宮田と云ふ中尉に推服して居たが、
酒酣なるに及ぶや ほら立上つて、
「 宮田さんは偉い。高岸さんは偉い。偉い人に肖るのだ 」
と、一々汚い靴下をなめて廻つた。
全く思つた通り、考へた通り、遠慮も外聞もなく、眞直にやつてのける風があつた。
然し又實に思ひ遣りの深い人であつた。
自分の亡くなつた家内は相澤さんの奥さんの妹であるが自分が豊橋教導學校に居た時、
家内が病むや わざわざ秋田から奥さんを看病に寄こされ、
その死んだ時には實に情のこもつた電報を寄せられて自分もホロリとさせられてしまつた。
そして一家を擧げて來弔された。
昨年六月亡妻の三年忌の時もわざわざ福山から來て下さつた。
相澤さんと一緒に輪王寺に福定無外老師を訪ね、一日語り合つたことがあつたが、
師弟の情 正に親子の如しと言ふか、實に麗はしいものであつた。
永田事件の直後新聞に
「 案内もなく料理店の大広間に上り込んで大きくなつていた云々 」
と、宮島の一料亭 「 岩惣 」 に関する記事が載つて居たが、
あれは事情を知らぬ新聞記者が勝手なことを書いたので事實はかうである。
嘗て無外老師が 「 岩惣 」 の乞ひを容れて書いて送られた人筆が額に出來たからとて
「 是非一度宮島へ御出でを願ひ度い 」
と報じて來たのを、老師は
「 自分は行けぬから、代りに行って見てやつて呉れ 」
と福山の相澤さんに書いてやられたからで、昨年秋季演習の後であつたか、
若い將校二三人を連れて見に行かれた時のことである。
「 女中も誰も見えなかつたので黙つて部屋を尋ねて拝見して來ましたが、
立派に出來て居りました 」
と、言ふ意味の手紙が老師の許に届いて居たのを見せて戴いたことがある。
大井町の日本体育会体操學校の配属將校を命ぜられた時には、
同校教務主任は予備役の歩兵大佐で
相澤さんの前任者が全く手古摺つた程の人であつたが、
相澤さんは誠意よく盡されて
遂に同大佐も当時大尉であつた相澤さんに一目も二目も置くやうになつて了つたそうである。
同校生徒は毎年夏富士裾野に野営演習に行き富士登山をするのであつたが、
相澤さんはいつも生徒の眞先に立つて長靴のまま富士山頂を極められるのが例であつた。
皆その不屈不撓の精神に感嘆して居たさうである。
体操學校配属當時は盲腸炎を患はれたが、一日出勤の前、奥さんに
「 手拭と楊子と歯磨粉を出せ 」 と言はれるので
「 どうなさるのですか 」 と尋ねた所
「 軍医學校に行つて盲腸の手術をやつてもらうのだ。一週間で歸るから來るに及ばぬ 」
と言捨てて出掛けて、果して丁度一週間で帰つて來られたさうである。
奥さんも言附けに背く譯にいかず、たうたう病院に行かずにしまはれたさうだが實に気丈な人であつた。
此の間聞いた話であるが、福山歩兵第四十一聯隊に赴任せられるとすぐ經理委員首座をやられた。
當時の聯隊長は、その卓子、椅子が古びたからとて規定を無視し、
將校集会所の金で立派な卓子椅子を造らせて聯隊長室で使用して居た。
相澤さんはこの事情を知るや、聯隊長の歸つた後商人を呼びその立派な卓子椅子を拂下げて了つて、
旧の規定の陣営具を備へさせて置いた。
翌日聯隊長が出勤して見ると様子が變つているので副官か誰かを呼びつけて、
理由を聞いて眞赤になつて怒つては見たものの、
經理委員首座たる相澤中佐が規定通り敢行したことなので如何ともしがたく、
中佐からも眞正面から難詰されてたうたう泣寝入りになつて了つたさうである。
相澤さんは不義と見れば權勢を恐れず敢然排除する人であつた。
次頁 中佐の片影・其二十二 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其二十二 ○○中佐
相澤君の爲人其の他に就いては自分よりも諸君の方がよく御存じの筈だから、
自分としては唯特に
「 相澤君は十一月事件や教育總監更迭の事情等を知つて、
此の儘で進んだら再び若い人達が五 ・一五事件のやうに飛び出すに違ひない。
若い人達を犠牲にしてはならないと言ふ一心であの決行をなされたものと思ふ 」
と、言ふて居たと諸君に傳へて貰ひ度い。
× × ×
余の求めた所感に対して○○少尉から左の感想文を書き送つて來た。
同少尉と余、只僅かに一面識に過ぎざるもの、
素より共に國家國軍に關する意見を交換したることはなく、又少尉がかかる意見を吐き、
或ひは包蔵することは彼の周囲からも聞き得ない。
然るが故にこの所感は無色透明、純一無雑なる青年將校の聲と言ふべきであるまいか。
同僚との雑話の間 更に此の感を深くする。
聲なきに聞けば---更に一層その聲が聞こえる如く感ずるものである。
一、士官候補生時代の思ひ出に 「 鋼鐵の如き人だなあ 」 と感じ忘るゝ能はず。
一、本校入校の送別會の時、「 腹の勉強を忘れるなよ 」 と言はれし顔。
一、寝室の寝物語に悲憤の友が口にする言葉の中に中佐の名は幾度かあつた。
一、巷間の妄説を信じての決行に非ずと云ふ氣がしてならぬ。
恥しき次第乍ら○○の訓示を聞かされても、新聞を見てもどうしても消えない大きな疑問があるのだ。
一、日本の現狀に、國軍の現狀に、何か大きな無理があるやうな氣がしてならぬ。
若しさうであつたら、義憤も血もある、熱もある。
身命もとより惜しむに足らず。
何だかヂツとして居られない氣持ち。
革新運動は他に非ず。
自分が先づ自分自身を深く掘り下げて行かねばと思ふと努めているのだが妖雲あり、
國法を仮面の毒蛇ありと聞く。
然しそれがどんなのか自分には明かにならぬのだ。
大きな悩み、
やがて信念に燃えて
腹の底から込み上げて來るものに依つて行動する時が來るのを待つて居る。
中佐は言はれた。
「 腹の勉強を忘れるなよ 」 と。
× × ×
神韻漂渺。
高い精神界にある相澤中佐の風格は、
傳へんとして傳ふることの至難であるのを今更乍ら痛感せざるを得ない。
劍と禅とに養ひ、國體観に徹し、大慈大非心に發して、國家の革新を念としたものであらうか。
武人中の武人であり、軍服を纏ふた聖者高僧であると言ふべきか。
◇ 左に某中尉に与へられた相澤中佐の一絶を掲げて本分の結びとする。
述懐
妙在精神飛動虚 不須形似劉費安排
乞看百天懸流勢 凡自胸中傾冩來
次頁 中佐最近の書信・八月十四日 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
(三 ) 中佐最近の書信
八月十四日 ( 宣子殿宛 )
「 親の命に意見を傳ふてもよい 」
と先生から聞いたと云ふことを誤つてはいけない。
大事な事だから説明する。
父三郎は幼少のころ評判の親孝行だつたが、之は全く恥しい次第であるが、
親を懐ふ至情は幼年學校 殊に中央幼年學校で幾夜人知れず泣いたものである。
是は親が有難い懐しい余りで理屈ではない。
親 殊に父親の御薫陶で大君を懐ふことも漸次増し
近頃は中央幼年學校時代と同様に大君を懐ふて人知れず泣くことがあるばかりでなく、
相濟まぬ 「 壯心劍を横へ功なきを恥づ 」 と南洲が申されたが、
同様に全く申譯ないと思ふ流涕。
この方が正しいと思つた行ひに対して若し親が何んとか言はれたら、
始めて親に謹んで意見を申し上ぐるも惡くないだらうが、
御前等の母が思はるる至情を心肝に銘じ妹弟に率先し毎日励むことを要望する。
先日海水浴から歸り静子が下駄の緒を切らした時、
迎へに来て居つた母が徒足になつて母の履物を静子に与へられたのを見ただらう。
忘れてはならないぞ。
しからないで妹や弟のよく云ふことを聞くやうに工夫しなさい。
御前等は然し皆おとーさんの幼いときよりも親孝行だよ。
荷物は返送して
尠くも来年春までは居を更へないで皆學校も更へないで居つた方がよいと思ふ。
此のことは母とも相談してきめたらよいと思ふ。
父は殊の外丁寧な麹町憲兵分隊の御世話になつて
其の後も亦此所に各位の手厚い御取扱ひを受けて出發前の下痢も全快し
何一つ不自由不足なく壯健で居る。
皆呉々も安心せよ。一同の健康を祈る。
父三郎
御一同様
次頁 中佐最近の書信・九月二十日 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
(三 ) 中佐最近の書信
九月二十日 ( 静子殿、正彦殿宛 )
秋のよい天候になつたようだから、
道子をはじめ皆屋外で運動をして丈夫な身と立派な心持を養ひなさい。
本日四日附の正彦の手紙も大層よろこんで見ました。
昨日も亦靜子よりの手紙と正彦の画と書方の大部好くなつたのを見ました。
皆一生懸命に勉強して居ることが能くわかりまして非常によろこんでいます。
殊に私の心持をちやんと承知して居ると云ふことを何よりうれしく思ふ。
私も至極壯健で毎日運動もし、勉強もし、規則正しく心地よく日を送つていますから安心して下さい。
次に一、二心懸けを申します。
一、常に姿勢を正しくすること。
二、汗をかいた後よく拭くこと。
三、雨天の際 殊に電車の踏切りに注意すること。
尚鈴木主計さんに御礼狀を差上げましたことを母さんに申上げて下さい。さようなら。
父より
靜子殿
正彦殿
皆々様
次頁 中佐最近の書信・九月二十七日 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
(三 ) 中佐最近の書信
九月二十七日 ( 宣子殿宛 )
随分雨が降り續きました。
折角の御彼岸も沈黙でしたらう。
然し皆元氣そうでうれしく思ひます。
おとーさんの所では運動も出來、御菓子や牡丹餅の甘いのを頂きまして、
雨は降つても有難い祭日でありました。
御蔭で至極元氣です。
今日より天気も續きませう。
皆愉快に學校に通ふことが目の前に見へている。
顧れば本年は大変雨が多かつた。
大部水害で困つて居る人も多かつたと思ふ。
此の冬は此度天氣が續いて乾燥し、殊に鷺の宮はほこりが立つだらう。
咽喉を痛めない様に今から注意することが必要です。
「 うがひ 」 もよいですよ。
黒川先生に和尚さんの薬を言ふてやりました。
仙台の屋敷のことは別に記憶が確かでないから鈴木氏と安藤氏とに私から出した手紙がありました。
問ひ合はして取りよせて相談されるのもよいと思ひますが、
若し問ひ合せても不明な時には松山の意見等を參酌して昨日おかあさんの御考への通りでよいと思ふ。
おかあさんにも、靜子ちゃんにも、正彦にも、道子ちゃんにもよろしく。
さようなら。
父より
宣子殿
學校はどーですか。
次頁 中佐最近の書信・十月十六日 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
昭和十年十月十三日、長女宣子 「 衛戍刑務所にて接見・・・学校の件 」
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相澤中佐の片影
(三 ) 中佐最近の書信
十月十六日 ( 正彦殿宛 )
昨日は宣子ねーさんが元氣なく訪れてきたことは
本十四日朝になつてその理由がわかりました。
父は覺悟のことであるからなんとも思はない。
福山で別れる時言つたことを心に銘じて
少しのことで長い間曇つた心を持つていてはいけないよ。
生死は命あり、唯時所を得るのみであります。
獅子は三日にして可愛い赤坊を千仭の谷に投ずるではありませんか。
紊りに憂愁を以て忠魂を損ずることは嚴にいましめなさい。
想起せよ。
大義桜井驛前途茫々として妖雲天に迷ふも別に弱氣心を起すべきに非ず。
唯正に聖訓を奉戴して進みなさい。
妖雲は自ら消散します。
正彦は朝ねぼーではないか。
天気の朝は富士山が見える筈です。
未だ左手で書描する癖がとれないではないか。
大部皆上手になりましたねー。
おかーさんの言ふことをよく守つて皆一生懸命に勉強しなさい。
おとーさんは非常に元気だよ。
父より
正彦殿
おかーさんや、宣、靜ねーさんや道子ちゃんにも、尚大野大佐殿にもよろしく。
述懐 十月六日
神州男子坐大義 盲虎信脚不堪
誰知萬里一条鐵 一劍己離起雨情
述懐 十月十一日
丹心挺身揮宝刃 妖邪移影無常観
唯膺聖恩期一事 二八閑居無秋心
述懐 十月十五日
善勝惡敗浮雲如 危乎同胞八千萬
永夜靜宵間大空 天邊拂雲仁兄誠
呉々も皆元氣でやりなさい。さようなら。
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二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
(三 ) 中佐最近の書信
十一月一日 ( 道子殿宛 )
道子や大變元氣になつたそーだが、かぜをひかないよーにしなさい。
正彦は大變よくお母さんの云ふことを聞くそーだねー。
踏切の百姓やさんに毎日ただいまをするそーだが、大層よいことだ。
いつまでもやりなさい。
靜子はのどが惡いから學校から歸つたら何時でも塩水でうがいなさい。
又宣子はお母さんを助けてやつて下さい。
ねーやは姿勢をよくしなさい。
胸は必ずなほる。
此の歌は去る十七日の述懐でした。
さらでだに立ち去りがたき神の國
雲の上石の上なる駒草を想ふ
皆しつかり元氣を出してよいことをしようと心がけて行くやうになさい。
尊い人になりなさい。
尊い人とは偉い人と云ふのではありません。
正しい人、尊い人になる様になさい。
私は大層元氣ですから御安心下さい。
さよーなら。
父より
道子殿
次頁 雑録 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
(四) 雑録
◇ 在福山市の一老人からの書信を載せる。
因に 「 小生相澤氏とは未だ一面識無之、文通せしことも無之候得共、
書中の青年を通じ互に 『 宜しく言ふて呉れ 』 的の挨拶を交せし仲に有之 」
と追伸してある。
未見の知己、眞に相澤中佐を語るものと言ひ得やうか。
皇國の政治は 「 祭事 」 と心得申候
「 親が子に臨むが如し 」 と解し居り候。
然るに大正以來の政治は
「 駈引 」 「 策略 」 を以て終始し居り候事は
小生體験を以て之を承知罷在候。
殊に昭和と成りては
政府は娼婦にも劣る白々しき詐欺虚言を吐いて
平然たるに至りては何とも申様も無之、
皇國として刺客の起るは當然の儀と存候。
相澤中佐殿が永田を誅されし理由を、陸軍省公然の發表として新聞に發表せられし処を讀むに、
曰く 「 謬まれる巷間の浮説を妄信し云々 」 と。
嗚呼、吾相澤中佐は單に世間の噂を盲信して輕擧妄動するが如き
オツチヨコチヨイ、三文奴には無之候。
歩兵第四十一聯隊の將兵が心より語る処に聞け。
曰く
「 隊中の將兵は中佐を高山彦九郎と呼べり 」
「 隊中の將兵一人として中佐を惡く言ふものなく、皆其の謹嚴にして温厚なるに心服せり 」
「 中佐は不言實行の人なり 」
と。
而して小生が玆に輕擧妄動に非ざる證拠として特筆仕り度は、
中佐が永田を誅すべく上京さるゝ時、小生指導下にあり常に中佐に私淑しありし一青年
( 中學校を卒業し、目下青年團長を勤めをる ) が岡山まで同車せしが、
中佐は同青年に訓へて曰く、
「 此際青年として勤むべきは皇魂の宣布である。腕力に訴ふるが如き暴擧は慎んでなすな 」
と。
自己は今君側の奸を除かんとして行途にありつゝ
農村青年團長に向つては、團員に皇魂の扶植を訓論し、
青年の熟して爲す易き輕擧妄動を訓戒せらるる如きは、
之果して 「 巷間の浮説 」 に心を狂はすが如き者の爲す可き行爲に御座候や。
永田鐵山なる匹夫が自己の奸才を弄して皇國を蠧毒きくいむしどくしつつありし事は、
十目の視る処、十指の指す処に御座候。
殊に今回の人事に就き、鐵山が中心になつて大いに力をつくしたる事は新聞にすら載り居り候処、
然るに陸軍當局は自ら欺き 而して人を欺き 以て其の威信を保ち、
統制を圖らんと策せるも 是れ却つて陛下の皇軍を冒瀆し奉り、
世人より侮辱さるゝの基と成り、益々統制を亂す者に外ならず候。
長上の命令に服從するは啻ただに陸軍の規定たるのみならず實に人道に御座候。
然れども苟いやしくも皇國の御爲めに成らざる事を看過し自己一身保安の爲め荏苒日を送るは、
本當の---口頭だけでなく---日本精神を有する者の肯んぜざる処に候。
故に陸軍の幹部にして眞に統制を欲するものならば、權力を以て部下を威壓するの妄念を去り、
眞に部下軍人をして心服さすに足るの行を執らんことを敢て忠告致度候。
× × ×
◇ 中佐の一辱知じょくちの寄せた文
一、昭和七年頃私が中佐殿に初めてお會ひした時、いたく感動したことはその大自然的な風格であつた。
言行の總てが自他を詐らざる、無理のない、極く自然なそして雄大なことであつた。
初對面の時笑ひ乍ら申された言志録の一章
「 身に老少ありて心老少なし、氣に老少ありて理に老少なし、能く老少なきの心を執つて
以て老少なきの理を體すべし 」
は、其の後私の生活の基準になつた。
二、昭和九年二月頃中佐殿が中耳炎を病んで慶応病院に入院しておられた頃
私は友人と二人で御見舞いに行つた。
私共が病室に入つて直感したことは病状の只ならぬことであつた。
患部を繃帯して寝台の上に呻吟して居られる姿は傷々しい限りであつた。
「 中佐殿如何で御座いますか 」 と申上げると、
中佐殿は苦痛を噛みしめて奥様を呼ばれ無理に寝台の上に起き、
「 ハイ、相澤の病気はいいです。Y君はいけない。部屋に入った時の敬礼がいけない。
I 君は少しいい。然し君は礼儀を知らぬ。
上官の部屋に入つて外套もぬがぬ様な將校はいけないのだ 」
と、いきなり注意を受けた。
私共が冷寒をおぼえて恥入つて威儀を正すと、
「 それでいいそれでいい 」 と申されて満悦至極の態であつた。
その時中佐殿はこんなことも言はれた。
「 私は今は病気を治すことだけする。
若い偉い人が居られるから御維新の事はその方々にたのむ 」 と。
私共がやがて病室を辭し去り、靖國神社に參拝の途次二人はつくづく中佐殿の偉さを語合つた。
三、中佐殿は退院して間もなく私の宅をお訪ね下さった。
木綿絣かすりにセルの袴をつけ、日本手拭を腰にはさんだ例の通りの質素な服装で、
「 やあ I さん、入院中お見舞いの節は大變叱つたさうですネ、 ハツハツハー--- 」
と割れるやうな大聲で笑はれた。
雑談している中ヒヨイと私の落書した高杉晋作の詩
「 眞個浮世価三銭 」 の句を床の間に見つけて、いきなり剥ぎ取つて
「 これはいい これはいい これ下さい 」
と言ふなり懐にねぢ込んでトントンと階段を降り、
さよならと言葉を残して帰つて行かれた。
私は友人と中佐殿の人生観の奥深い所を交々語り合つたが遂ひに語り盡し得なかつた。
断片一束
一、中佐殿が慶応病院に入院されて居つたとき、士官候補生の○○が肺結核で入院していると聞き、
非常に同情されて早速懇ろな手紙と共に 「 養生する様に 」 と申添へて二十円送つて呉れました。
( □□少尉談 )
二、大隊長が精神訓話され、言 皇室の御事に及ぶと涙を流して話されました。
( 一除隊兵談 )
三、或夜不寝番が下番になつたので私が床の中へもぐり込んだ所へ、
夜中にも不拘寝室を巡つて来られた大隊長殿が尋ねられました。
「 寒くて眠らないのか、それとも風邪てもひいたのか 」
なんでも寒い冬の夜でした。
あの温容がまだはつきりと目の前に浮んで来ます。
( 一憲兵伍長談 )
四、中佐と共に留守隊にて勤務せし将校は異口同音に
「 至誠の人 」 「 精神の人 」 と言つて居る。
小生も亦見習士官より任官迄御薫陶に与つたが
ツツツポの着物を着られた中佐の姿が目のあたり浮び、
殊に青年將校を可愛がつて呉れた思ひ出に感慨無量なるものがある。
( ××中尉談 )
五、昭和七年三月二十日。
歩兵第三聯隊第十一中隊將校室に、大蔵、朝山、村中、佐藤、安藤の各陸軍中尉、
中村海軍中尉、坂元士官候補生が會合し、
中村海軍中尉は直接行動の必要を鞏調力説せり。
偶々相澤中佐來室され、事情を聞くや、「 神武不殺 」 を説き、
又 「 日本の國は血を流さずして奇麗に立て直る國である 」 と説き、
「 若しやる必要があるならば若いものにはやらさぬ、私がやる 」
と斷言したり。
此の爲め海軍側の提議は容れられず、
遂に陸軍將校の參加なくして五 ・一五事件は決行せられたり。
( △△大尉談 )
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